1981年に放送された名作ドラマ、
『北の国から』をご存じですか?
たくさんの人を感動させたこのドラマを、
あらためて観てみようという企画です。
あまりテレビドラマを観る習慣のなく、
放送当時もまったく観ていなかった
ほぼ日の永田泰大が、あらためて
最初の24話を観て感想を書いていきます。

イラスト:サユミ

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#11


人と自然と。

『北の国から』第12回のあらすじ

3学期が始まる早々、
純と螢はキツネの事で正吉と大論争。
「餌をやったのがいけなかったのかな。
螢があのコを殺しちゃたのかな」
それがきっかけで、
純と螢は開拓時代の暮らしや野生動物のことを学ぶ。
一方、雪子はつららの家出が原因で、
清吉から牧場で働くことを断られてしまう。
傷つく雪子。
だが落ち込んだ彼女を待っていたのは、
風力発電ではじめて灯った1個の裸電球だった。

 

テレビドラマには
「駅の回」と「道の回」がある、
と言ったのは糸井重里である。

「駅の回」というのは、
そのドラマ全体の流れのなかで、
大きな節目となるような回で、
なにか大きな出来事が起こったり、
登場人物の運命が激しく変わったりする。

一方、「道の回」というのは、
節目となる回へとつながる回で、
さまざまなことの経過を追ったり、
事情をきちんと積み上げたり、
そうならざるを得ない背景を語ったりする。

動きが激しくて観る者を惹きつけるのは
「駅の回」だけれども、
ずっと「駅の回」を続けるわけにはいかない。
そして、「駅の回」が盛り上がるためには、
しっかりとした「道の回」が必要だ。
そんなふうに糸井重里は語った。

ちなみに、この話は三谷幸喜さんが
脚本を担当した大河ドラマ、
『新選組!』を観るなかで語られた。
いまもぼくは、ときどきテレビドラマを観るとき、
「駅」と「道」の構造を感じることがある。
よくできたたとえだなあ、と思う。

『北の国から』もその構造に
当てはめていくことができるのだが、
ぼくは第12回まで観て、もうすこし違うことばで、
この物語を分けることができると感じた。
それは、「人の回」と「自然の回」である。
うわぁ、なんだか、大げさな分類になってしまった。

いってしまえば、『北の国から』は、
大きな自然のなかで
人が生きていくという物語だとぼくは思う。
自然は美しくて怖くて圧倒的で、
人間は複雑で悲しくておもしろい。
そのどちらもが、丁寧に、真剣に、
妥協なく描かれているから、
『北の国から』は40年の月日を超えて、
こんなふうにたのしまれるのだと思う。

第12回は、「自然の回」だった。
自然は厳しくてややこしく、
簡単に解決できたりしない。
問いかけはいくつも生じるが、
ぴったりの答えはいつも出ない。

螢のキツネがかかったトラバサミの罠。
それを仕掛けたのは、
笠松のおじいさんだった。
動物を狩ることは、
いいことなのか、わるいことなのか。
人が食べる動物と人がかわいがる動物は
いったいどういう差があるのか。

もちろん、答えは簡単に出ない。
とりわけこの『北の国から』というドラマは、
安易に答えを出さないということについての
優先順位が非常に高いとぼくは思う。
このドラマは、答えを出さないことに必死だ。
かといって、さまざまな答えを準備して
多様性を表現するわけでもない。
大切なことだから考え続けよう、
みたいなことを呼びかけたりもしない。
ただ、真剣な問いかけをして、あとは、放り出す。

答えないことを象徴していることのひとつが、
原田美枝子さんが演じる小学校の先生だと思う。
まさに、問われて答えを明確に言うべき先生が、
しばしば「わかんないんですよね」と口にする。
ぎりぎり答えるときも、私の考えだということを、
答えそのものよりも大事そうにきちんと告げる。

そして、演技のことはよくわからないのだけれど、
原田美枝子さんは、自分の考えを言うとき、
ほんとうにその場で考えたことを言ってるみたいだ。
役者さんが台詞をしゃべっているというよりも、
ラジオの深夜放送の、それも明け方に近い時間帯の、
スタッフの笑い声とかが入らないタイプの
ラジオ番組のDJがひとりでマイクに向かって
しゃべっているみたいだ。

人と自然が溶けていくようなこのドラマを観ていると、
人が「わからない」ということも、
なんだか、自然なことのような気がしてくる。
酔っ払って半裸で歌をうたうことも、
雪子おばさんのお誕生日をお祝いすることも、
なんだか、自然の営みのような気がしてくる。

おしまいのところで、すっと数ヶ月が過ぎた。
雪解け水と、ふきのとうの描写。
ぼくが思ったよりも早く、春が来たのだ。

(つづくわけで。)

2020-02-10-MON

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