1981年に放送された名作ドラマ、
『北の国から』をご存じですか?
たくさんの人を感動させたこのドラマを、
あらためて観てみようという企画です。
あまりテレビドラマを観る習慣のなく、
放送当時もまったく観ていなかった
ほぼ日の永田泰大が、あらためて
最初の24話を観て感想を書いていきます。

イラスト:サユミ

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#5

息遣いと狭さ。

『北の国から』第5回のあらすじ

螢はすっかり大自然の中での生活に慣れたが、
純はまだ火をつけるのもおぼつかない。
そのせいか純には父が螢ばかりをかわいがって
自分には冷たいと思えてならない。
そんな時、五郎は変わり者の老人、
笠松杵次(大友柳太郎)から嫌がらせを受け、
純の気持ちに気が付かず
父親に嫌われてると思い込んだ純は、
ある夜とうとう悲しみを爆発させ、
螢が餌付けしているキツネに石を投げ付けてしまう。

『北の国から』第6回のあらすじ

純と螢は雪子の編んでるマフラーを
草太(岩城滉一)へのプレゼントと早合点し、
草太は感激の余り不眠症になり仕事も手につかない。
一方、草太の恋人、つらら(熊谷美由紀)は
嫉妬して雪子の所へ乗り込んで来るが、
東京で別れた恋人への思いを
まだ断ち切れずにいる雪子は、
自分の気持ちを整理するために東京へ行く。

 

専門的なことはよくわからないのだけれど、
『北の国から』の役者さんたちの台詞は、
なにか特別な録音の仕方をしているのだろうか。

というのも、このドラマの声は、
無声音というのかな?
息のもれるような音が、
ものすごく細やかに拾われているような気がするのだ。

わかりやすいのは純のモノローグで、
舌っ足らずな言い回しや、
ちょっと震えるような声、
大人っぽい熟語を言うときの
ぎくしゃくした発声などの端々に、
柔らかい息の音がする。

たぶん、純のモノローグに限っていうと、
そもそもの音量が小さいのだと思う。
それはもちろん意図したことで、
あれは彼の内面の声なのだから、
小声でささやくように発声されていて当然だ。
彼のモノローグは、いちおう、
「ケイコちゃん」という
東京の同級生に向けてはいるものの、
誰かに告げているというよりは、
ひとりでつぶやいているようで、
個々の単語も不明瞭だったりする。
でも、小学生の独り言なら、それで自然だ。

息遣いを感じるのは純だけではない。
たとえば、第5回で
笠松のおじいさんを演じた大友柳太郎さん。
そして、大滝秀治さん。
ふたりの名優は、びしっと芯のある声なのに、
ひとつひとつのことばが
枯れた息遣いでコーディングされている。

そして、つららを演じている、
熊谷(松田)美由紀さん。
つららさんのことばは、
誰かに向けて発せられるまえに、
いちど口のなかで転がしているような印象がある。
そして少しくぐもった感じで
出てくるときのことばは、
どことなく官能的な息遣いとセットになっている。

一方で、まったく息遣いを感じないのが
竹下景子さんである。
仄暗いムードをまとってさえ、
彼女のことばはいつでも凛としていて、
きちんと鍛錬された発声を感じさせる。
それでとても効果的だなと思うのは、
雪子の台詞はとても都会的に響くのである。
それが、役づくりによるものなのか、
キャスティングの意図なのか、両方なのか、
それはぼくにはわからない。

第5回を観て、
原稿を書こうかなと思ったけれど、
ついそのまま第6回を続けて観てしまった。
そのあたりは曖昧にしてしまっていいのだと思う。

そうしないと、
なんだかドラマの1回1回を、
「原稿を書くポイントを探しながら観る」
みたいな感じになってしまう。
それはやっぱりどこか不自然だし、窮屈だ。
まずは、自由にドラマを観る。
原稿を書くのはその行為の延長にある、
誰かに向けたおしゃべりのようなものだ。

さて、第5回では、
笠松のおじいさんとの土地のトラブルと、
純が五郎さんに嫌われているのではないかと
悩む姿が描かれた。
第6回は、草太の雪子への思いが描かれ、
つららさんと雪子さんが対峙する、
なかなかハードな場面もあった。

総じて、人と人との関係が、
いろんな軸で絡み合う様子が
この2回のなかに表現されていた。
なんというか、伏線とか回収とか、
そういうきちっとした巧みな関係ではなく、
そういうことってどうしてもあるよなあ、
という、寡黙で、避けがたい、
まとわりつくような関係の表現が見事だった。
親子、親戚、先輩、近所づきあい、
同郷、跡継ぎ、片思い、失恋、遠距離。
ひとりひとりの登場人物の間に、
湿り気のある濃密な線が張り巡らされる。

テレビドラマにおいて、
人間関係が濃密であることは、
それほどめずらしいことではない。
というか、その濃密さがあるからこそ、
ドラマはドラマとして成立する。
けれども、『北の国から』の人間関係の濃密さは、
ふつうのテレビドラマとは違う、
独特の生々しさのようなものがある気がする。
ぼくは思うのだけれど、
それは、『北の国から』のなかの
場所がとても狭いからではないかと思う。

それは世間や世界が狭いという
概念上のことではなく、物理的な狭さのことだ。
だって、なにしろもう、家が狭いんだよ。
五郎さんち、基本、一部屋だからね。

嫉妬をおさえきれなくなったつららさんが、
雪子さんに向かって、
「ここに生涯住むつもりがないなら、
長く居ないでくれ」なんていう
ヘビーな発言をするのは、
深夜のバーでも切り立った崖でもなく、
五郎さんちの居間というか、
引き戸から入ってすぐのところで、
2階にはふつうに純がいるからね。
草太が唐突に雪子にキスするのは、
海の見える公園でも花火の上がる川辺でもなくて、
家の外に止めた車の中だからね。
雪子が東京に帰って落ち込んでる草太に
五郎さんがいろいろ説明するのって、
家の外っていうか、引き戸の外で、
何言ってるかは聞こえないけど、
しゃべってるところは家の中から丸見えだからね。

『北の国から』の舞台は北海道の広大な地だけれど、
ドラマの拠点となるのはいくつかの建物で、
いずれの建物も、まあ、狭い。
そこで、人々は独特の関係を築いていく。

ついでにいうと、狭いといいこともあって、
あらゆるテレビドラマに不可欠な、
「ドアの外で偶然立ち聞き」というのは、
『北の国から』においてはとても自然な演出となる。
ふつうのドラマなら、
「なんだよ立ち聞きばっかりだな!」と
つっこみが入るようなところも、
このドラマだと、
「そりゃ聞こえちゃうよな、だって狭いもん」
というふうに感じられてしまう。

そして、狭さに加えて、この雪である。
ドラマに登場するひとりひとりは、
北海道の雪に封じ込められている。
悩み、心配し、眠れず、
なんらかのままならぬものを抱えるめいめいは、
それぞれが積もる雪の下にある。

純を悩ませ、純の屋根に雪ふりつむ。
草太は眠れず、草太の屋根に雪ふりつむ。

その意味では、封じ込められた環境の狭さは、
ドラマの濃密さを圧力釜のように
倍増させる効果があるともいえる。
密室や、孤島や、客船や、洋館など、
閉じ込められた状態で起こる殺人事件が、
ミステリーのシチュエーションとして
とても効果があるように、
雪や寒さで制限された狭い場所で
繰り広げられる人間ドラマは、
とても濃密で生々しい。

そう考えると、登場人物の発することばの
ひとつひとつにまとわりつく細やかな息遣いを
丁寧に拾っているのは、
締め切った暖かい部屋のガラス窓が曇るような、
人間くささを表現する効果があるのかもしれない。
ああ、こういうことを考えはじめるときりがない。

最後にどうしても書きたくて書くけど、
雪子を思って不眠症になった草太が、
寝ている両親のところに行ったとき、
揺り起こされた大滝秀治さんが、
がばっと身を起こして、
「牛かっ!?」と叫んだのがめっちゃおもしろくて、
思い出すといまも笑う。

(つづくと思われ。)

2020-01-29-WED

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