1981年に放送された名作ドラマ、
『北の国から』をご存じですか?
たくさんの人を感動させたこのドラマを、
あらためて観てみようという企画です。
あまりテレビドラマを観る習慣のなく、
放送当時もまったく観ていなかった
ほぼ日の永田泰大が、あらためて
最初の24話を観て感想を書いていきます。

イラスト:サユミ

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#3

最終回じゃないのか。

『北の国から』第3回のあらすじ

叔母の雪子(竹下景子)に頼んで、
母の元に帰りたいと五郎に訴える純。
そしてけっきょく、純だけが東京に帰ることになった。
「父さんの気持ちを想像すると、
 かなり心が痛みましたが、
 ここで迷えばもとも子もなくなり‥‥」
駅へと向かう純。しかし見送ってくれた
清吉(大滝秀治)の
「おまえら、敗けて逃げだしていくンじゃ。」
と言うことばが胸に突き刺さる。

 

純は、どうしても東京に帰りたいと言う。
五郎さんは、別居中の奥さんに連絡する。
純は、東京に帰ることになる。
しかし、戻ってくる。

言ってしまえば、ただそれだけの回である。
たっぷりと、それを表現する回である。

戻りたい戻りたいと
ずっと思っている東京の男の子が、
とうとう東京へ戻ってしまう。
しかし、彼は戻るのをやめて、
北海道の家に帰ってくる。

いや、待ってくれ、それは、しかし、
このドラマの縦軸じゃないのか。
メインテーマじゃないのか。
もっとわかりやすく言っちゃうと、
クライマックスじゃないのか。
東京に戻ると言って出ていった男の子が、
夜の扉の向こうにぽつんと立っているのは、
このドラマの最終回の最後の
感動的な場面じゃないのか。

そうではないのだ、『北の国から』は。

相変わらずセリフは少ない。
上に書いたようなクライマックスっぽい場面も、
例によって淡々と表現される。
東京へ向かっていた純が翻意する瞬間にも、
とくに強いことばはない。
帰ってきた純を、五郎さんは抱きしめない。
それどころか誰も何もしゃべらない。
なんてことだ。

たぶん、現代のドラマでは、あるいは、
舞台が富良野以外の場所では、
この回は成り立たないのだと思う。
これだけのことで、このセリフの少なさで、
45分間のテレビドラマが成立するとは
ぼくにはとても思えない。

けれども、『北の国から』は、
成り立つどころか、
それだけで観るものを十分に惹きつける。
実際、45分間はすぐに過ぎてしまう。

セリフがなくても、
大きな事件や喜怒哀楽がなくても、
このドラマが観るものを惹きつける
大きな理由のひとつは、
そこに自然があるからだ。
北の大きな自然の風景が
彼らを取り巻いているからだとぼくは思う。

ドラマの中には、五郎さんや純や螢や、
東京からやってきた雪子おばさんが、
ただただ、作業をしている場面がある。
それも、ちらっと映るようなことではなく、
たっぷりと作業の経過を映し出す時間がある。

そこでは、純がへっぴり腰で薪を割っている。
斧は小さな彼にはとても重そうで、
薪は、割れたり、割れなかったりする。
五郎さんは大きな倒木を鋸で切り、
テコで動かそうとしている。
思いっきり力を入れるから、
観ているこちらにも力が入る。
螢と雪子おばさんは、
つまり、中嶋朋子さんと竹下景子さんは、
大きな石をいくつも一輪車に積み込んでいる。
ひとりが一個、持てるかどうかの重そうな石だ。

いいですか、みなさん。
たとえそれがドラマの撮影であろうと
スタッフが用意したものであろうと、
石を積む場面では、
石を積まなければならないのです。
たぶん、これは、
『北の国から』というドラマにおいて、
とても重要なことです。

石を積む場面では、
石を積まなければならないのです。

その石は、めっちゃ石です。
重そうな、泥のついた、持ちづらい石です。
たぶん、それを運ぶ竹下景子さんは、
重かっただろうと思います。
まだ小柄な中嶋朋子さんの手がすべって
つま先に落ちでもしたら、
爪が割れたり内出血したりするでしょう。
たとえば、カット割りを連ねて
ただ石積みの作業を表現するというのであれば、
積まれた作業後の石のアップと、
額の汗をぬぐう竹下景子のふたつの画があれば、
事足りるかもしれません。
けれどもその場面において、
このドラマは時間経過を表現するのではなく、
「作業そのもの」を追いかけます。
その意味において、
『北の国から』はどちらかというと
「鉄腕ダッシュ」なのです。

自然と生活という厳しい基盤が、
このドラマではあらかじめ突きつけられています。
だからこそ、その合間に
短い台詞や衝突や感情が流れるだけで、
うねりのあるドラマとして
成立するのではないでしょうか。

東京へ向かう列車に乗り込んだ純は、
窓から外を観ています。
述べたように彼は何も言いません。
ただ、窓から外を観ています。
窓の外に、大きな自然が流れていきます。
その大きな自然の風景に、
お父さんや螢がいる家のまわりの風景が
フラッシュバックします。
ぼろぼろの屋根の上の青い空、
佇んでいる鹿、木の上で実をかじるリス。
清吉おじさんの「負けて逃げる」ということばと、
雪子おばさんの「ひとり」ということばが、
流れていく風景に重なります。

窓の外を観る純の頬に薄く涙が流れ、
ついにことばはまったくなく、
純は夜の扉の向こうにぽつんと立つことになるのです。

そして、見事なのが最後の演出です。
純が戻ってきた感動の場面で
一家の誰にもひと言も語らせなかったのに、
直後に流れる「純の必殺モノローグ」では、
彼にこう言わせるのです。

「ぼくは急に気が変わって
こっちがいいって思ったわけじゃない。
だけど、覚悟は決めた。」

そこでの映像は、暖かな炎です。
ストーブのなかでゆらゆらと燃える薪。
暖かい、家族の象徴のような炎です。
そして純のモノローグは最後にこう結ばれます。

「その翌日、はじめて雪が降った。」

画面に、雪です。

いままで、
「その家では冬は越せない」とか、
「凍え死んでしまう」とか、
「子どもには無理だ」とか、
さんざん語られていたけれど
姿は見せなかった富良野の雪が、
純の小さな決意が固まるのを
待っていたかのように降りはじめるのです。

おい、この場面は最終回じゃないのか、
と思っていたぼくは、
それで、思い知らされるのです。

ああ、『北の国から』は、ここからはじまるのだ、と。

(つづくわけで。)

2020-01-27-MON

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