海洋冒険家の堀江謙一さんに
インタビューさせていただきました。
1962年、
まだ自由に海外へ行けなかった時代。
全長6メートルに満たないヨットで、
太平洋を横断した堀江さん。
単独無寄港での達成は世界初でした。
今年81歳になる堀江さんは、
今も自由に大海原を走っていました。
海というより、風を感じました。
ヨットのように、自由で、軽やかで、
堀江さんご自身も、
風に近づいていくように感じました。
担当は「ほぼ日」奥野です。

>堀江謙一さんのプロフィール

堀江謙一 プロフィール画像

堀江謙一(ほりえ・けんいち)

1938年、大阪市生まれ。海洋冒険家。1962年に世界で初めてヨットで太平洋単独横断に成功するなど46年間、果敢に冒険航海に挑戦し続けている。

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パスポートも英語もお金も。

──
94日間の航海でアメリカに着いて、
ネズミはいない、と検疫を通過して。
堀江
うん。
──
そのあとも、いろいろ大変ですよね。
堀江
すぐに移民局から、日本総領事館へ
電話してくれたんだけど、
日曜日でなかなか連絡がつかなくて。
──
日曜の午後で、お休み中で。
堀江
2時間くらいかかって、
係の人がヨットハーバーまでぼくを
迎えに来てくれたんです。
その日は、ま、それだけ。
──
そうなんですか‥‥アッサリしてる。
堀江
次の朝、もういちど移民局へ行って、
滞在1か月間オッケー、
必要な場合は
また言ってくださいねって言われて、
それでぜんぶ終わりました。
それから1か月間、
日本総領事館でお世話になりました。
──
パスポートありなし関係なく。
堀江
総領事館が保証してくれていたから。
日本からこんなやつ来てるけど、
そっちで預かるか、いいよ、
みたいなやりとりがあったんでしょうね。
──
総領事館の人、親切‥‥というか。
堀江
そうそう、ほんとによくしてくれて。
ただ、到着した翌日、
移民局へ行って滞在オッケー取って、
また日本総領事館へ戻ったら、
記者会見がセットされてたんですよ。

──
え、マスコミのみなさんが集まって?
堀江
机が3つ並んでいて、ぼくが真ん中、
右側には総領事、
左側には通訳さんが座っていました。
──
取材陣からは、どんな質問が?
堀江
まずアメリカに知り合いはいるのか、
と聞かれたんで、
知り合いはいないけど、
アメリカの大統領の名前は知ってる、
と答えました。
──
大統領。
堀江
まあ、大統領のほうでは、
ぼくのことを知ってるはずもないし、
結局は、
知り合いはいませんということやね。
──
ちなみに当時の大統領というと‥‥。
堀江
ケネディでした。
──
ジョン・F・ケネディ大統領。
堀江
次に、「何でヨットで来たんだ」と
聞かれたんで、
来たいから来ただけだ‥‥と答えて。
──
例の、聞いても仕方ない質問が来た。
堀江
そうそう。
──
でも相手は、それで納得しましたか。
堀江
いや、それが、納得しないわけよね。
なぜかって言うと、
通訳さんが、へんなふうに訳したの。
──
変なふうに。
堀江
ぼくは
「やりたいから、やっただけですよ」
って答えてるのに、
「そこに海があるから」って訳した。
──
そこに山があるから、みたいな。
つまり、わざわざ、かっこよさげに。
堀江
総領事館が頼んだ通訳さんだったと
思うんですけど、
ぼくがどんな人間であるか、
誰も何もわからなかったわけですよ。
──
前日に着いたばかりの人ですもんね。
なにせ。
堀江
だから‥‥うまくことを収めたくて、
こんな質問が来たらこう答えようと、
最初から、決めてたんじゃないかな。
──
そんなふうに訳されてるってことを、
そのとき、気づいてましたか。
堀江
気づかなかった。
何を言ってるかわからなかったです。
記者の言ってることが、そもそも。
──
はー‥‥じゃあ、あとになってから
「そこに海があるから」
と訳されていたことに、気づかれて。
堀江
そう。
──
でも、あくまで堀江さんの気持ちは
「やりたいからやっただけ」だった。
堀江
そうです。
──
ともあれ、それから1か月間、
アメリカに滞在することになったと。
堀江
記者発表の日の夕方、
チャイナタウンの中華料理のお店へ
連れて行ってくれたんです、
総領事館の人がね。
そこで、その日の朝刊を見たら、
もう現地の新聞に載ってるんですよ。
──
おお、サンフランシスコの朝刊に。
堀江
記者会見より前に、新聞に載ってた。
着いたとき、ちょっとの間、
インタビューをされたときのことが。

──
顔写真入りとかで?
堀江
そうそう。
──
一気に有名人じゃないですか。
堀江
記事には、
日本の青年が独りでヨットで来たと、
いろいろ書いてあって、
最後に、この青年が
サンフランシスコへ到着したときは、
3つのものを持っていなかったって、
締めくくってあったんです。
──
3つのもの。
堀江
NOパスポート、
NOイングリッシュ、NOマネー。
うまいこと書くよね。
──
そういうまとめ。
堀江
どうも、やたらと
「お金、持ってるか?」と聞くわけ。
たしか、2000円と答えたけども、
彼はもう、
はじめから書きたかったんだろうね。
──
NOパスポート、
NOイングリッシュ、NOマネーと。
当時の2000円というのは、
今で言うと、どれくらいの額ですか。
堀江
大卒初任給が1万円台の時代だから、
2、3万じゃないですか。
──
それは、いざというときのために?
堀江
いや、出発前もお金使いますからね。
西宮までの交通費もいるし、
ごはん食べに行ったりもしましたし。
残ったお金をそのまま持ってただけ。
──
帰りの費用は‥‥。
堀江
両親に送金してもらうつもりでした。
当時それなりに高かったとは
思いますけど、
それくらい送ってくれるでしょうと。
──
無事についたはいいけど、
帰って来れなくなっちゃいますしね。
じゃ、航空券代、送ってくださって。
堀江
いや、実際は、さっきの
「NOパスポート、
NOイングリッシュ、NOマネー」
が効いたんです。
あいつ日本へ帰れないんちゃうかと
思ってくれた航空会社が、
名乗りを上げてくれたんですよね。
──
なんと。
堀江
「よかったらうちの飛行機で」と。
──
すごーい。
堀江
とくにJALは親切にしてくれた。
本当に助かりました。
帰りの飛行機だけじゃなく、
どこか行きたいところあるかとか。
──
え、連れてってあげます、って?
堀江
そう、ちょうど9月から、
ヨットの「アメリカズカップ」が、
ニューポートアイランドで
開催されるところだったんです。
せっかくだから、
それを見に行きたいですと言って、
スケジュールも
立ててもらっていたたんですけど、
実現しませんでした。
──
どうしてですか。
堀江
もう、日本のほうから、
何月何日までに
堀江を帰すようにと圧力があって。
──
なるほど。帰国されたときは‥‥。
堀江
取材陣以外にも、たくさんの人で。
羽田はじまって以来の人出だ、と。
──
メディアの取材攻勢と、野次馬と。
堀江
あちらでもさんざん聞かれたけど、
航海日誌はあるのか、とか。
あったけど、見せなかったけどね。
──
のちに、その記録が
『太平洋ひとりぼっち』になった。
堀江
そう。今でも持ってますけど。

(つづきます)

2020-12-03-THU

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