2020年の年末、ほぼ日は
神田の町に引っ越してきました。
はじめてのこの町をもっと知りたいし、
もっと知ってほしいと思っています。
そこで、日本全国のすべての市町村を回った
若き写真家、かつおさんこと仁科勝介さんに
神田の町を撮ってもらうことにしました。
自由にやってください、かつおさん。

>かつおさんのプロフィール

かつお|仁科勝介(にしなかつすけ)

写真家。1996年岡山県生まれ。
広島大学経済学部卒。
2018年3月に市町村一周の旅を始め、
2020年1月に全1741の市町村巡りを達成。
2020年の8月には旅の記録をまとめた本、
『ふるさとの手帖』(KADOKAWA)を出版。
写真館勤務を経て2020年9月に独立。
2021年10月から2022年8月にかけて、
東京23区の490ある全て駅を巡る
プロジェクト「23区駅一周の旅」を完遂。
そこで撮影した、東京のささやかな日々を
まとめた写真集『どこで暮らしても』
2022年11月に自費出版。
2023年春から新プロジェクト始動予定。

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#161

喫茶店のエースさんへ(前編)

ある8月の朝、
人の少ない神田駅を出て3分ほど歩く。
やがて、橙と白のストライプ調の屋根が見えてきたら、
お店に到着だ。
ストライプには
「珈琲専門店エース」の文字。
喫茶の名店だ。
ひと呼吸して、扉を開ける。

時刻は朝7時をまわって20分ほど、
つまり、朝7時に開店をして30分も経たないわけだが、
お客さんはゆったりと腰を据えていた。
新聞を読む男性は出勤前のサラリーマンだろうか、
黙々と文字を書くエプロン姿の
お母さんは近所の方だろうか。
エースさんに入ると、
誰かの生活と共に、
時間を共有していることを実感する。
そうして自分もできるだけ慌てようとはせず、
空いていた奥の席に着いた。
まもなく、マスターのひとりである清水徹夫さんが、
お水をサッと出してくれた。
お兄さんの清水英勝さんが調理を担当し、
弟の徹夫さんが接客を担うのが、
エースさん長年のスタイルだ。

店内を見渡せば、
エースさんでしか味わえない空間で包まれている。
壁に掛けられた、
独特のフォントによる商品メニューは、
すべて英勝さんによる手書きだ。
珠玉のコーヒーと呼ばれるゴールデンキャメルを、
ラクダをモチーフに描いた大きな丸看板は、
東急ハンズで板を買ってつくったという。
細部に至るまで手作りで装飾された店内。
マスターたちの愛が、
お店にはぎゅっと詰まっている。
だから、席につくと不思議と安心する。

さて。注文は迷ってもいいけれど、
今回はすぐに「Aセットでお願いします」と伝えた。
モーニングはAセットとBセットの2種類だ。
ブレンドコーヒーは共通だが、
Aセットは「のりトースト」、
Bセットは「ハムトースト」である。
もちろん、各メニューたちは
モーニング以外の時間にも注文できる。
しかし、今日も食べたいのだ。
エースさんのマスターがつくる、のりトーストを。

「お待たせしました。のりトーストです」
徹夫さんの静かな言葉を、
静かに受け取める。
心の中では、目を見開き、
喜びのハイタッチを交わす。
マスターがつくるお手製ののりトーストは、
開店初日から創業52年目の今に至るまで、
一切つくり方が変わっていない。
その味はすでに全国に名を轟かせ、
レシピも全面的に公開されている。
しかし、なぜだろうか。
「ここで食べたいんだよな‥‥」
という気持ちに、
心が支配されていることに気づく。
先に落ち着くために、
ブレンドコーヒーをいただく。

いざ、手を合わせて、
のりトーストを手に取る。
迷わずかじりつく。
ああ‥‥。
脳にじわじわと、
幸せなシグナルが送られてゆく。
そう、のりトーストは、
分かりやすい美味しさというよりも、
白いお米のように、
噛めば噛むほど美味しくなる。
いわば、噛みしめる美味しさなのだ。
塩気と甘さの交わりに、
みるみる引き込まれてゆく。
そして、やがて気づく。
この味は、エースさんの味だ‥‥。
それ以上は、形容しがたいのだ。
焼きのり、しょうゆ、バター、
とてもシンプルな組み合わせでつくられた、
唯一無二のトーストに、
ぼくは魅了されている。

(後編へつづく)

2022-08-25-THU

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