
言語学者の川原繁人さんと
ラッパーの神門さん、KZさんが、
「日本語ラップ」を語り合いました。
3人の会話から浮き彫りになったのは、
誰の孤独も、不安も、決意も受け入れながら、
独自の道をこじ開けてきた日本語ラップの現在。
約3時間に及んだ、この熱い談義を入口に、
日本語ラップの深いふところに飛び込んでみませんか。
担当は、本鼎談を企画した安木と、
ただ日本語ラップが好きな松本です。
川原繁人(かわはら・しげと)
1980年、東京都生まれ。
慶應義塾大学言語文化研究所 教授。
2000年カリフォルニア大学
サンタクルーズ校に交換留学。
同大学言語学科、名誉卒業生。
2002年マサチューセッツ大学
言語学科大学院入学。
2007年同大学院より言語学博士号取得。
『フリースタイル言語学』(大和書房)、
『言語学的ラップの世界』(東京書籍)など、
著書・共著多数。
神門(ごうど)
1986年、兵庫県神戸市生まれ。ラッパー。
現在も神戸を拠点に活動。
自身のレーベル「半袖バイブスレコード」に所属。
語りかけるようにラップする
ポエトリーラップのスタイルで人気を集める。
KZ(けーじー)
1988年、大阪府生まれ。ラッパー。
ソロで活動するほか、ラッパー集団
「梅田サイファー」の中心人物としても活躍。
力のこもったラップと情緒的なリリックで
ファンを惹きつける。
- ほぼ日・安木
- きょうは「日本語ラップ鼎談」として、
言語学者の川原さん、
ラッパーの神門さんとKZさんに
お集まりいただきました。
企画を担当するほぼ日の安木です。
よろしくお願いいたします!
- 一同
- よろしくお願いします。
- 安木
- いきなり個人的な話になってしまいますが、
自分が中高生のころ、
すごく日本語ラップが流行っていた記憶があります。
RHYMESTERやRIP SLYME、
KICK THE CAN CREWやDragon Ashといった
ラップグループの曲を、
まわりのみんなが聴いていて。
そして、ここ最近、日本語ラップが当時のように
再燃している感覚があるんです。
発信する側として
日本語ラップと関わってきたみなさんにも、
「いま、日本語ラップが熱い」
という実感はありますか。
- 川原
- 安木さんがおっしゃった
「中高時代に盛り上がっていた」時期のあと、
日本語ラップには、いわゆる「冬の時代」が
到来したんです。
だから、いま「冬の時代を抜けた」
という盛り上がりがあるのかもしれませんね。
- KZ
- 確かに、それはありそうですね。
- 神門
- ‥‥(水を飲む)。
- KZ
- ‥‥いま水飲むんですか!?
- 一同
- (笑)
- KZ
- 「神門さんはいまの日本語ラップシーンを
どう考えてらっしゃるのかな」
と期待して横を向いたら、まさかの水分補給を。
- 神門
- いやいや、すみません(笑)。
ちょっと緊張して。
▲和やかな雰囲気の御三方。
- 神門
- 僕は、冬の時代以前の
「日本語ラップが盛り上がっていたとき」と、
いまの盛り上がりは少し違う気がしています。
というのも、当時はわりと
「日本語ラップが好きな人のあいだで
盛り上がっていた」状況でしたけど、
いまは、とくに日本語ラップファンでない人も
ふつうに曲を知っているからです。
「友だちのラッパーの曲が
近所のスーパーで流れてる」なんて、
以前だったら考えられないことが起こっていて。
なので、いまのこの感じは再燃というより、
「いままでになかった燃え方」という印象です。
- KZ
- 自分も、自分が
メジャーデビューさせてもらったこと自体が、
シーンの盛り上がりの影響だと思っています。
神門さんの言うとおり、いまは日本語ラップが
お茶の間に浸透しています。
最近はCMでもよくラップが使われていますよね。
少し昔は、ラップといえば
「『ヨーチェケラッチョ』ってやつでしょ?」
と、ちょっと揶揄される存在でしたけど、
いまはちゃんとかっこいい表現として
認知されていて、うれしいです。
- 安木
- 私が中高生時代に聞いていた2000年代とは、
また違った盛り上がりなのですね。
きょうの鼎談では、
日本語ラップがどんなふうに根付いてきたのか、
どんなおもしろさがあるのかなどを
うかがいたいと思っています。
改めて、よろしくお願いします。
では、まずは入門編として
「日本語ラップの歴史」について
お聞きできたらと思います。
本来なら、このパートだけで
数時間とらなければならないくらい、
語るべきことがたくさんあるなか恐縮ですが、
収録時間の関係上、15分ぐらいで
ご説明いただいてもよろしいでしょうか‥‥?
- KZ
- はい、できる限りがんばります!
まず、そもそものHIPHOPの起こりから
お話しさせてください。 - 1960年代、ニューヨークの再開発によって、
数万人が立ち退きを余儀なくされました。
さらに、立ち退いた人々に対し
「有色人種にはお金を貸さない」といった施策が
走ったせいで、黒人やラテン系の人々は
住む場所がなくなり、
どんどん貧困に追いやられました。
当然、不満は高まり、犯罪も横行しました。 - そんな状況にいた人たちが、70年代、
公園などで「ブロックパーティー」という
独自のパーティーを始めました。
自宅などから
ターンテーブル(レコードプレイヤー)を持ち寄り、
DJがレコードを回し、ダンサーが踊ったり、
MC(ラッパー)がラップをしたりしたんです。
これがHIPHOPの始まりと言われています。 - 当時の普通のディスコでは、
1曲かけて、それが終わったら次の曲につないで、
というやり方が一般的でした。
曲のなかの、とくに盛り上がる
「ブレイク」と呼ばれる箇所に差し掛かったら、
みんなで踊ったんです。
でも、ブロックパーティーを始めた人々は
「ブレイクとブレイクだけをつないで、
ずっと盛り上がるようにしたらええんちゃうか」
と思いついたんですね。
そこで、ブレイクを上手につないでいくDJという
役割ができました。
ラッパーはもともと、DJの隣で
「みんな盛り上がってるか、調子どうなんや」
「おまえのダンスかっこいいな」と、
会場を煽っていた人たちだったんです。
- 川原
- HIPHOPとラップの違いが
気になる方もいらっしゃるかと思うので、
少し補足させてください。
HIPHOPには「ラップ、DJ、ブレイキングダンス、
グラフィティ」という四大要素があります。
つまり、シンプルに言ってしまうと、
HIPHOPは文化で、
ラップはHIPHOPの一要素なんです。
- KZ
- そうですね。ラップとDJ以外にも、
「暴力で問題を解決するんじゃなくて、
ダンスで勝負しようや」という発想から
ブレイキングダンスが広がったり。
社会から抑圧されていて、声を上げる場所がない、
自分たちのメディアがない環境にいた若者たちが、
地下鉄の駅などでグラフィティを描いて、
自分たちの存在を主張したり。
「自分はここに生きてる。ここにいる」という声が、
HIPHOPを発展させました。 - そして、日本には、
80年代後半くらいにラップが渡ってきました。
ただ、日本の場合は、主に新しい文化に敏感な人々が
ラップを取り入れたんです。
だから自分は、日本語ラップの歴史を遡っていて、
「日本のラップの始まりは、
アメリカのように貧困や抑圧のなかから
生まれたものではなかったんだな」と感じました。
なので、日本でラップをするうえでは、
ともすれば「文化の盗用」になる可能性があることを
踏まえておかなければならないと、
自分は思っています。
HIPHOPがどこからやってきたものなのかを知り、
その上に自分の表現を乗せさせてもらう、
という意識を忘れないようにしたいなと。
- 神門
- 今回、KZが「最初にHIPHOPの歴史を話したい」と
提案してくれたもんね。
KZは、歴史をしっかり押さえたうえで、
自分がどう表現していくかを大事にしてるんやね。
- KZ
- はい。「HIPHOPとはなにか」という問いには、
文化、アートフォーム、生き方、表現‥‥
いろんな答えがあると思います。
そのなかで、自分にとっての答えは
「マイノリティがマジョリティを振り向かせる行為」
なんです。
「持たざる者」であった人々が街角で始めた、
自分たちだけの小さな遊びが、
数十年後に世界を染めあげたという事実。
自分は、それがラップ、そしてHIPHOPの
かっこよさやと思っています。
だから、自分の思うラップの魅力を伝えるには、
「歴史」からお話しさせてもらうことが
不可欠なんです。 - 日本でのHIPHOP黎明期に話を戻します。
1996年7月7日、日比谷野外大音楽堂で
「さんピンCAMP」という大きな
HIPHOPイベントが開催されました。
これが、日本語ラップの黎明期における
ビッグバンと言われていて、
多くのアーティストがメジャーデビューする
きっかけになりました。
ところが、2004年あたりから、
俗に言う「日本語ラップ冬の時代」が
始まったと言われています。
- 安木
- 冬の時代当時、
メジャーなシーンには出ていなくても、
アンダーグラウンドでは
日本語ラップが育まれていたのでしょうか。
- KZ
- 自分の個人的な感覚ではありますが、
冬の時代と言いつつ、おもしろい作品が
たくさん生まれた時代だと思います。
「いま、HIPHOPで売れるわけがないから、
いっそ、ほんまに好きなことをやろう」
という意識があったんじゃないかな。
だから、それぞれのラッパーが
自分の表現を突き詰めた、独特なアートフォームが
散らばっていた印象があります。
- 松本
- ‥‥横からすみません。
私からも、
冬の時代についてお聞きしていいでしょうか。
- KZ
- おっ、ヘッズ席から挙手が。
- 松本
- 「ほぼ日社内の日本語ラップ好き」ということで、
僭越ながら
「ヘッズ」として参加させていただいている、
ほぼ日の松本です。よろしくお願いします。
みなさんは、ちょうど冬の時代を乗り越えてきた
方々だと思います。
当時、日本語ラップやHIPHOPが、
ほかの人たちから高く評価されていなかったなかで、
どんなふうに自分の好きな音楽と
関わっていらしたのでしょうか。
- 神門
- 実のところ僕は、
冬の時代だという感覚はありませんでした。
僕は冬の時代に突入したばかりの
2005年が初ステージだったので、
それまでの盛り上がりを
あまり現場感覚では知らなくて。
- KZ
- ああ。不景気の時代に生まれたから、
「いまが不景気だ」という感覚がない世代のような。
- 神門
- んー、というより、
目の前に基準となる「いま」があるだけで、
それが好景気か不景気なのかは
考えていなかった。
- KZ
- 自分は「このラッパー、こんなにかっこいいのに、
ラップだけでは食べていけないんや。
じゃあ、俺がラップで食べていけるわけないな」と、
ショックを受けることがよくありました。
それでも、HIPHOP自体は、
もう愛しまくっていましたね。
「これだけかっこいいものがあるんだから、
俺が愛さなあかん」みたいな。
だから、梅田駅の歩道橋でサイファー
(ラッパーたちが円になり、
即興でフリースタイルラップをすること)をする
仲間たちに出会って、すごく救われました。
「同志よ」って、ハグするくらいの勢いで。
- 松本
- 当時、いまぐらい盛り上がるだろうとは、
あまり予想なさらなかったですか。
- KZ
- そうですね、まったく。
‥‥あ、でも、どうなんやろな。
明確に流行る、という予測はなかったですが、
「こんなかっこいいもの、こんなおもしろいものは、
いつか絶対みんなを振り向かすはずや」
という気持ちはありました。
先ほど触れたように、HIPHOPは
「マイノリティーが
マジョリティーを振り向かせる行為」
だと考えていたからです。
その「HIPHOPが振り向かせる瞬間」を
プレイヤーとして見届けてやる、
と、ずっと思ってきました。
(明日に続きます)
2025-04-20-SUN
-
『言語学的ラップの世界』
川原繁人 feat.Mummy-D・晋平太・TKda黒ぶち・しあ、東京書籍(2023) -
神門 20周年ワンマンライブ


