外出自粛暮らしが2ヵ月を過ぎ、
非日常と日常の境目が
あいまいになりつつあるようにも思える毎日。
でも、そんなときだからこそ、
あの人ならきっと「新しい思考・生活様式」を
身につけているにちがいない。そう思える方々がいます。
こんなときだからこそ、
さまざまな方法で知力体力を養っているであろう
ほぼ日の学校の講師の方々に聞いてみました。
新たに手にいれた生活様式は何ですか、と。
もちろん、何があろうと「変わらない」と
おっしゃる方もいるでしょう。
その場合は、状況がどうあれ揺るがないことに
深い意味があると思うのです。
いくつかの質問の中から、お好きなものを
選んで回答いただきました。

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第6回 引退した病理医としてチョット言いたいこと 向井万起男さん(病理医)

世界一大リーグに詳しい病理医・向井万起男さん。
アメリカ映画通であり、ほぼ日の学校の
シェイクスピア講座で「オセロー」を語った
シェイクスピア通であり、ただならぬ読書家でもあります。
新型コロナウイルスの感染拡大の影響で
大リーグの開幕が遅れるなか、
毎年現地観戦をなさっている向井さんは
どんな日々を過ごしていらっしゃるのでしょう。
そうお伺いしたところ、返ってきたお返事は、
思いがけない「新たな日課」の話から始まりました。

●「ぐぶっどぼ・もぼーにびんぐぶ」

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が問題になってから
私の生活様式で一番変わったこと、
それは外出することが極端に減ったことだ。
3月中旬から必要最小限の外出しかしていない。
スーパーでの買い物と夕方の2時間弱の散歩
(途中で書店に寄って本を買うこともある)くらい。
あとは、ひたすら自宅で過ごしている。
こうした変化に特に戸惑ったりも困ったりもしていない。
むしろ、これまでの外出をけっこうしていた日々は
一体何だったんだろうと思ってしまう。
余計なことばかりして短い人生の貴重な時間を
無駄に使っていたんじゃないかと反省したくなるくらい。

私は今年の6月で73歳になる。
65歳まで40年間にわたって大学病院の病理医だった。
患者さんから採取された組織や細胞を顕微鏡で調べて
診断したり、病院で亡くなられた患者さんの
ご遺体を解剖したりする医師。
引退して7年以上経つので、COVID-19問題が起こる前から
現役世代の方と比べれば外出することは少なかった。
それでも友人・知人との会食や、
大好きな大リーグの愛好会の定例会に出席するために
外出していた。こうした外出も一切しなくなったので、
人と会って話をするという機会が激減してしまった。

で、新たに始めたことがある。毎朝、朝食を摂った後に
朝日新聞の「天声人語」を大きな声を出して読むこと。
滑舌維持に効果があるんじゃないかと思ってのことだ。
さらにボケ防止にも役立つかもしれないし。
ただし、ただ単に字面通りに声を出して読むなどという
芸のないことを私はしない。
ひとつひとつの文字に「ば行」の文字を付ける……
こういう〝遊び〟を子供の頃にしたことがない人は
私が何をしているかサッパリわからないでしょうから
説明しておきます。私の名前を例にして。

「向井万起男:むかいまきお」の「む」は
「ま行」の3番目の文字なので
「ば行」の三番目の「ぶ」を付けて「むぶ」とする。
次の「か」は「か行」の最初の文字だから
「ば行」の最初の「ば」を付けて「かば」とする。
「い」は「あ行」の2番目の文字だから
「ば行」の2番目の「び」を付けて「いび」とする。

こういう風にしていくと、
「むかいまきお」は
「むぶかばいびまばきびおぼ」となる。
ちなみに、「ん」には何もつけない。
で、「天声人語:てんせいじんご」は
「てべんせべいびじびんごぼ」となる。

この〝遊び〟を私は10歳のときに一日で
(正確には数時間で)完璧にマスターし、
何も考えずにスラスラと「ば行」の文字を付けることが
できるようになった。何の意味もないどころか
バカバカしいと言ってもイイ、ただの〝遊び〟にすぎない。
今でも私は10歳のときと同じようにスラスラといけるが、
10歳のときよりもバカバカしいことをたまにしている。
英語でもやっているのだ。
たとえば「Good morning:ぐっど・もーにんぐ」を
「ぐぶっどぼ・もぼーにびんぐぶ」と言ったりしている
(「っ」には「ん」と同じように
何も付けません。念のため)。
当たり前だが、英語圏の人にはまったく通じない。

滑舌維持(とボケ防止)のためとはいえ、
こんなバカバカしいことを「天声人語」で毎朝やっていると
フッと思うことがある。〝オレって
トシいって幼児化してしまったのかもしれないなぁ。
70をすぎてから10歳の頃に戻ってしまったんだから。
でもまぁ、イイか。こういう人生もありだよな〟。

●どうでもイイことの中心に

ところで。COVID-19に対する緊急事態宣言下の
5月9日の朝のことだ。
「天声人語」を「ば行」の文字を付けながら
大声で読み始めた私は冒頭の文章にビックリしてしまった。
ここで、その文章を「ば行」の文字を付けずに
オリジナルのまま引用します。
「人気俳優ブラッド・ピットが主演した
『マネーボール』は、
大リーグ弱小球団の再建を描く映画である。
劇中、マット・キーオというスカウトが実名で登場する。
プロ野球の阪神で名をはせた元投手だ」
マット・キーオは元大リーガー。1987年に来日して4年間、
どん底状態だった阪神タイガースでエースとして頑張った。
そのマット・キーオが5月1日に
アメリカで亡くなったので、
「天声人語」は追悼文(のようなもの)を記していたのだ。

「天声人語」が記しているように、マット・キーオは
現役を引退してからスカウトとして働いていた。
映画「マネーボール」の原作であるマイケル・ルイスの
傑作ノンフィクションでも実名で登場する。
しかしだ、ブラッド・ピット主演の映画でも
マット・キーオが登場しているなんてホントか?
アメリカ映画のDVDコレクターの私は
「マネーボール」のDVDも持っていて、10数回は観ている。
でもマット・キーオがスカウトとして実名で登場している
なんてシーンがあるとは気付かなかった。
もし「天声人語」の言う通りだとしたら、
私はとんでもなく迂闊だったことになる。

私はすぐに「マネーボール」のDVDを
チェックすることにした。
どのあたりにスカウト達が出てくるシーンがあるかは
すべて憶えているので、チェックは簡単にできた。
結果は「天声人語」の言う通り(当たり前ですね)。
負け惜しみになってしまうが、
私が購入したDVDで観る限り普通は気付かないと思う。
もし気付いたとしても、 どのスカウトが
マット・キーオなのかわからないのが普通だと思う。
私は「天声人語」の指摘にビックリして
細かくチェックしたので、
どのスカウトがマット・キーオなのかまで特定できたけど。
どうやって特定したかを書くとエラク長くなるので省略。


『マネーボール』発売中
Blu-ray 2,381円(税別)/DVD 1,410円(税別)
発売・販売元:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント

ちなみに映画のチェックが終わった後、
原作ノンフィクションも久しぶりに読み返してみた。
やっぱり凄い傑作だ!


『マネー・ボール〔完全版〕』マイケル・ルイス
(ハヤカワ・ノンフィクション文庫 1,034円)

どうでもイイことを長々と書いてきましたが、
ようするに外出しなくなった私は
毎日どうでもイイことをしているということです。
さらに言うと、そのどうでもイイことの中心にあるのは
DVDを細かくチェックすることと読書をすることで、
COVID-19という問題が起こる前から
私が熱中していたことです。つまり、「天声人語」を
「ば行」の文字を付けて読むようになったこと以外は
本質的には変わっていないということです。
自宅にいる時間が長くなったぶんだけ、
DVDと読書に対する熱中度が増したかもしれませんが。

●『ペスト』と『楢山節考』

読書といえば、チョット言っておきたいことがあります。

2019年の夏、どうしてだか自分でもよくわからないのだが
私は突然アルベール・カミュの小説を
読み返してみたくなった。
そして、まずは『異邦人』、次に『ペスト』を読み返した。
まさか、それから半年後にCOVID-19に関連して
『ペスト』がベストセラーになるとは思いも寄らずに……。
COVID-19問題の半年ほど前に
私がカミュの『ペスト』を読み返していたのはホントです。
ちゃんと証人がいます。
ほぼ日の学校長の河野通和さんです。
2019年の9月、「ダーウィンの贈りもの I 」講座で
「ほぼ日」に伺った際、河野さんとカミュについて
チョットした議論をしましたから。
特に『異邦人』と『ペスト』の邦訳について。
河野さんは憶えてくださっていると思う。


『ペスト』カミュ(新潮文庫 825円)

COVID-19問題に直面した今、
カミュの『ペスト』を読んでみるのはイイと私も思う。
でも、私が多くの人に一番読んでほしい本は
『ペスト』ではない。
人工呼吸器が足らなくなれば命の選別が始まり、
若い人の命を優先して高齢者からは
人工呼吸器を外すしかないかもしれないという
論議さえされるようになっている今、
ぜひとも多くの人に深沢七郎の
『楢山節考』を読んでほしい。
棄老伝説を見事な小説に昇華した『楢山節考』は
日本文学史上最高の傑作小説だと私は思っている。
これは私の本音です。COVID-19問題が起こったから
こんなことを言っているわけではありません。
ちゃんと証人がいます。またしても河野通和さんです。
数年前、河野さんと雑談をしていた際に
私が「日本文学史上最高の傑作小説は
『楢山節考』だと思っているんですよ」と言ったのを
河野さんは憶えてくださっていると思う。


『楢山節考』深沢七郎(新潮文庫 539円)

●私の切実な願い

引退した病理医として言いたいことがチョットだけある。

今、COVID-19に罹患する危険性があるにもかかわらず
働く医療従事者のことを「エッセンシャルワーカー」と
呼んで感謝・激励するムーブメントが巻き起こっている。
とても嬉しいことではあるが、
こうしたムーブメントが一過性のもので終わるのではなく、
また今のような声高で派手なものとしてではなく、
静かではあるが世の中に根を張ったものになってほしい。
これが私の切実な願いだ。

現役時代、患者さんを直接診ることのない病理医の私でも
感染の恐怖を感じながら仕事をしたことが何度もある。
ひとつだけ例をあげておこう。
どんな薬剤にも耐性を示す結核菌に感染して亡くなった
結核症の患者さんのご遺体を解剖したとき。
左右の肺は結核症のために
ドロドロに溶ける寸前という状態だった。
そうした肺を両手で調べながら私は思っていた。
〝もし、このご遺体から結核菌がオレに感染したら。
そしてオレが発症したら、どんな薬剤も効かないんだから
オレも死ぬんだよな……〟。
当時は今のような防護服やフェイスシールドなどを
身につけずに解剖していたので、
感染する可能性は充分にあった。
でも仕事だから、感染の恐怖を抑えて解剖を続けた。

患者さんを直接診ない病理医でもこうなのだ。
患者さんを直接診る臨床医や看護師は常に
危険と隣り合わせと言ってもイイ仕事をしていることを
理解して頂ければと思う。
COVID-19問題が起こる前も、
COVID-19問題の真っ最中も、
COVID-19問題が解決した後も、
医療従事者は命に関わる危険と相対して仕事をしている。

最後に、マット・キーオについて書かれた
2020年5月9日の「天声人語」の最後の文章を
「ば行」の文字をつけずに
オリジナルのまま引用しておきます。

「6位、6位、5位、6位——。虎のエースとして4年、
チームはどん底から浮上できなかった。
負けても負けても黙々と投げ続ける
修行僧のような姿は忘れがたい。
逆風下でも、歯を食いしばって
与えられた職責を果たしてこそ本物のプロ。
球界でも映画でも脇役であった人から学んだ教えである」

プロフィール

病理医。慶應義塾大学病院病理診断部長などを歴任して2013年定年退職。「世界一メジャーリーグに詳しい病医」として朝日新聞夕刊にコラムを12年間連載していた。2009年、『謎の1セント硬貨 真実は細部に宿るin USA』で第25回講談社エッセイ賞受賞。著書に『君について行こう 女房は宇宙をめざした』『女房が宇宙を飛んだ』『ハードボイルドに生きるのだ』など。慶應義塾大学医学部在学中、演劇部に所属。1947年生まれ。

(つづく)

2020-05-27-WED

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