家で過ごすことが増えたいま、
充電のために時間をつかいたいと
思っていらっしゃる方が
増えているのではないかと思います。
そんなときのオススメはもちろん、
ほぼ日の学校 オンライン・クラスですが、
それ以外にも読書や映画鑑賞の
幅を広げてみたいとお考えの方は
少なくないと思います。
本の虫である学校長が読んでいる本は
「ほぼ日の学校長だより」
いつもご覧いただいている通りですが、
学校長の他にも、学校チームには
本好き・映画好きが集まっています。

オンライン・クラスの補助線になるような本、
まだ講座にはなっていないけれど、
一度は読みたい、読み返したい古典名作、
お子様といっしょに楽しみたい映画や絵本、
気分転換に読みたいエンターテインメントなど
さまざまな作品をご紹介していきたいと思っています。
「なんかおもしろいものないかなー」と思ったときの
参考にしていただけたら幸いです。
学校チームのメンバーが
それぞれオススメの作品を
不定期に更新していきます。
どうぞよろしくおつきあいください。

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no.16

『急に具合が悪くなる』


宮野真生子、磯野真穂

世界への信に充ちた魂のやりとり

 

『急に具合が悪くなる』
宮野真生子、磯野真穂(¥1760 晶文社)

哲学者の宮野真生子さんと
人類学者の磯野真穂さんによる、10回にわたる往復書簡。
タイトルの「急に具合が悪くなる」とは、
筆者のひとり宮野さんが、
実際にお医者さんから告げられた言葉です。
2011年秋に乳がんを発症し、治療を続けてきた宮野さんが
主治医からそう告げられたのは2018年の秋でした。
そんな状況のなか、そんな身体の状態にもかかわらず、
宮野さんは、とあるイベントで偶然出会った磯野さんに
この往復書簡をやってみようと持ちかけます。

ふたりの手紙のやり取りは、2019年4月27日、
磯野さんから宮野さんに宛てられるところから
はじまります。
その後も、そのやり取りは、
磯野さんが質問を投げかけ、宮野さんがそれに答える
という形を取りながら進んでいきます。
共に、学問を生業とする研究者であることもあり、
そこで交わされる言葉は、ときには文献を引用しながら
とても理路整然としていて、
なるほどと納得させられることが多いものです。
治療を選択するとは、
そもそも「選ぶ」とはどういうことか、
なぜ自分は「いつ死んでも悔いがないように」という言葉に
欺瞞を感じるのか、
宮野さんは、病におかされている自分の状況や
身体に正面から向き合い、
ほんとうの言葉を紡ぎ出そうとし、
磯野さんは、宮野さんのその言葉を
引き出し、受け止め、さらに進んでいこうとする。
一通一通が真剣勝負です。

3便目で宮野さんは、主治医との面談に同席した
母親に対し感じた苛立ちについて書きます。
それは、
「先生の家族が同じ状態だったら、どうしますか?」
という質問をした母の「ルール違反」への苛立ちであり、
合理的に治療法を選んでいこうと
必死に耳を澄ませているところに入ってくる
ノイズへの辟易とした思いでした。

その返信で、磯野さんは宮野さんのことを
「合理性の鬼になれる修行僧」、と呼びながら
問いかけます。
なぜ、そんなあなたが九鬼周造を研究しているのか、と。

宮野さんは、九鬼周造(1888〜1941年)
という哲学者を20年にわたり研究していました。
その九鬼哲学の大きなテーマのひとつが「偶然」です。
つまり、合理性からはかけ離れたもののように見える
「偶然」が、宮野さんの研究の中心にある。
「合理性に基づく知性を持つからこそ、
人間は、偶然性に気づくことができます」と答えながら、
「偶然」への思いをさらに説明するために彼女がみせたのは
大の広島カープファンで、野球オタクの姿です。

「さまざまな条件、幾筋もの流れが、
その瞬間に『出会い』、偶然に『いま』が産み落とされる。
そんなプレーに遭遇するたび、
私は現実ってこんなふうに成り立っているんだと
驚いてしまいます。
と同時に、そこに『美しさ』を感じます。

その美しさは、現実が生まれる瞬間の美しさであると同時に、
その瞬間を引き受ける選手の強さでもあります。
彼らは、最終的に現実は偶然に左右されるものだから
といって、努力すること、準備することはやめません。
自分の力では
どうしようもないものがあるとわかっていながら、

彼らはバットを振り、グラブを出す。
必然性を求め、この先の展開を予測し、
自分をコントロールしようとしている選手たちは、
最後の最後で世界で生じることに身を委ねるしかない。
それはどうなるかわからない世界を信じ、
手を離してみる強さです。
そんな強さをもつ選手たちに私は憧れ、

『いま』が産み落とされる瞬間に立ち合って
時々泣きそうになります。」

そして、「合理性で未来を予測し、自分を守ろう」
とすることで見失っていたものが、
「世界への信と偶然に生まれてくる
『いま』に身を委ねる勇気」
なのだと、自分の姿を思い返します。

先にも書いたように、研究者であるふたりは
理論的であり、分析的です。
でもそのやり取りされる言葉のなかににじみ出ているのは、
理論や分析には収まりきらない彼女たちの姿です。
もちろんその「収まりきらないもの」も
しっかり見つめようとする姿勢は学者そのものと言えます。
ただ、理屈を超えたところにある人間というものを
ふたりは見せてくれるのです。

そして、それはこの「往復書簡」という形式だからこそ
より一層際立ちます。

この本の「はじめに」で、
ここに連なる言葉は、自分ひとりでは紡ぎ出せなかった、
と宮野さんが言うように、
お互いがお互いの言葉に引っ張られながら
言葉を引き出し合っていきます。

磯野さんが、宮野さんの置かれている状況について
「不幸」という言葉を使ったことをきっかけに、
「言葉」についてのやりとりがはじまります。

それまで自分を
「不幸」だと思ったこともなかった宮野さんは、
「不運」と「不幸」の違いについて考え、
自分は「不運」ではあるが、「不幸」ではない、
という答えを出します。
「不運」という理不尽を受け入れた先で、
自分の人生が固定されたときに
「不幸」という物語がはじまるとするなら、
自分はそうした安易な物語に組み込まれず
私の人生を手放すことなく生きている、と。

ただ、磯野さんとのやり取りを続けるうち、
実際には、そんなに不運と不幸の切り分けが
はっきりできていないかもしれないと言いながら
「ちょっとかっこつけすぎたかな、私」と反省もします。

「不幸に怒り、偶然のいまに身を委ね、
自分の人生を引き受け形作ってゆく。
そんな美しく整った物語を語ることで
見えなくなってしまうことはないのか。
そこに誤魔化しはないか。」

それは、自分だけでひとつの方向に向かって
ただ学問として考えていたら、
思い至らなかった気づきかもしれません。
「不幸」という言葉にはじめてぶち当たり、
そこで見つけた自分なのではないでしょうか。
そして、「書き言葉の宿命」として、
どうしても「一貫性をもった形」に整えられてしまい、
見栄えのいいところだけが
ピックアップされてしまう面を指摘します。

ふたりは、この往復書簡と並行して
携帯電話のLINEでも言葉を重ねていました。
そこは、書き言葉とは違い、連想、脱線、
思いつきの連続です。
「会話の広がる余地を作る遊び」がそこにはあります。

そして、LINEのやり取りを思い返しながら
「だらだらの中で、いつの間にか変わり続ける。
『自分』ってそういうものなのでは」
と宮野さんは思い至ります。

LINEという「遊び」の部分で育まれるふたりの信頼関係が、
この往復書簡を見えないところで
支えているように思うのです。

ただ、どうしても病気についての語りは
「患者」と「非患者」という対立のなか
それぞれの立場が固定してしまい、
手紙の言葉が「整った遊びのない」ものになる
と感じた磯野さんは、
宮野さんにあるお願いをしました。
ふたりの間に「『死』についての言葉を開放してほしい」と。

そこから交わされる言葉は、
これまでとはまた違った様相を帯びていきます。
これまでのリアルで真剣さに満ちた言葉のなかに、
さらに「動き」や「熱」が加わります。
最初に主治医に言われた
「急に具合が悪くなる」という可能性が
現実として目の前にあり、
「いつかやってくるだろう」ものとして扱っていた「死」が
「いま、ここにある」ものになった。
その状況を共有した上で、
その地点から見えるものについて
改めてふたりは対話をはじめます。

そして、ページを重ねるごとに、
動きと熱を増していく磯野さんの言葉に
宮野さんを感じるようになります。
もちろん磯野さんという存在もはっきりと在りながら、
その考えや言葉のなかに宮野さんの存在を感じるのです。
そこで、受け渡されたものは
ふたりが時間を重ね築き上げた関係性のなかで
生まれたバトンです。

動きのある軌跡としての「ライン」だったものが
歴史の中で無味乾燥な点と点をつなぐ直線に化していく――
イギリスの文化人類学者、ティム・インゴルドが、
さまざまな事例を挙げながら批判的に論じるその言葉を、
人間関係に置き換えながら磯野さんは次のように言います。

「関係性を作り上げるとは、
握手をして立ち止まることでも、

受け止めることでもなく、
運動の中でラインを描き続けながら、

共に世界を通り抜け、その動きの中で、
互いにとって心地よい言葉や身振りを見つけ出し、
それを踏み跡として、次の一歩を踏み出してゆく。
そういう知覚の伴った運動なのではないでしょうか。」

ここに書かれる「運動」が、まさにこの往復書簡のなかにはあります。

「そもそも『生きる』って何なんでしょうね。」
と問いながら、
ひとりの打算ではなく、
「自分を超えた先に未来を託」すことで
はじめて世界に参加し、ラインを描き、
生きていくことができるのではないか。
そう言う宮野さんが見ている先には、
磯野さんがいるのだと思います。
そして、「世界はこんなふうに、
いつでも新しい始まりに充ちている。」
と未来への希望に満ちた言葉を口にします。

九鬼が「偶然性」を通して見ていたものは、
「『魂の分け合い』という『運命』だったのだと
二〇年の研究歴にしてようやくわかりました。」
と腑に落ちたように言う宮野さんの姿に、
なにかとても清々しいものを感じました。

宮野さんと磯野さんは、
互いに「出会う」という運命を感じ取り、
勇気を持ってみずからそれを掴み取りました。
だからこそ、そこにラインが描かれ、
新しい世界がその瞬間に生まれ、
わたしたちにその美しさを見せてくれます。

宮野さんの魂が、磯野さんにまちがいなく受け継がれた。
その瞬間をわたしたちはここで目にします。
そしてこの本を通して、わたしたちひとりひとりにも
その志は手渡されたと、いまはっきりと感じています。

(つづく)

2020-05-08-FRI

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