家で過ごすことが増えたいま、
充電のために時間をつかいたいと
思っていらっしゃる方が
増えているのではないかと思います。
そんなときのオススメはもちろん、
ほぼ日の学校 オンライン・クラスですが、
それ以外にも読書や映画鑑賞の
幅を広げてみたいとお考えの方は
少なくないと思います。
本の虫である学校長が読んでいる本は
「ほぼ日の学校長だより」
いつもご覧いただいている通りですが、
学校長の他にも、学校チームには
本好き・映画好きが集まっています。

オンライン・クラスの補助線になるような本、
まだ講座にはなっていないけれど、
一度は読みたい、読み返したい古典名作、
お子様といっしょに楽しみたい映画や絵本、
気分転換に読みたいエンターテインメントなど
さまざまな作品をご紹介していきたいと思っています。
「なんかおもしろいものないかなー」と思ったときの
参考にしていただけたら幸いです。
学校チームのメンバーが
それぞれオススメの作品を
不定期に更新していきます。
どうぞよろしくおつきあいください。

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no.11

『ポースケ』津村記久子

普通の世界がいとおしくなる

  


『ポースケ』津村記久子
(中公文庫)

津村記久子さんの小説には、
「生活を営む」人びとが多く描かれています。
『ポースケ』を織りなしているのも、
7人の女性たちの毎日の生活。
中心には、奈良の商店街にある「食事・喫茶 ハタナカ」
というカフェと、その店主ヨシカがいます。
年齢も生活環境も境遇もばらばらの女性たちが、
それぞれの濃淡で「ハタナカ」と関わりながら、
自分の生活を営む。
食べるものにも事欠くというほどではないけれど、
みな日々の糧を得るために働き、
働くことが生きることに直結しているような人たちです。

物語のなか、
なにか大きな事件が起きることはないですが、
みんな何かしらの心配や悩みを抱えています。
でも、そこに切実さは感じられても
あまり悲壮感が漂わないのは、
津村さんの冷静で計算された距離のとり方と、
関西弁の軽やかさもあるのではないかと思います。

生きていると、
自分の生活や自分の目に見えている範囲が、
自分にとっての「普通」になっていくのですが、
『ポースケ』に出てくる
彼女たちの日常を目にすることで、
また別の「普通」がそこにもあることにハッとします。

「普通」という共通項を通して、
自分とはぜんぜん違う彼女たちのなかに、
自分でも気が付かなかったような
自分を見つけることができる。
そういう普遍性をこの小説は持っています。

そして、自分だけではなく
自分のまわりにいる人たちのことも
ただわかったような気になっていたんじゃないかと
気が付かされるのです。

たとえば、「ハタナカ」でパートとして働く、とき子は、
昼間はコンビニでも働きながら、家族を支えています。
さっぱり明るくて、趣味はテレビを観ること。
「ハタナカ」で出す
食事のお惣菜づくりもテキパキとこなし、
人としての優しさを普通にもつ
‘’どこにでもいるようなおばさん‘’です。
でも彼女に焦点が当てられた章を読むとき、
「ハタナカ」で働いているときに見えていたものとは
ちがう姿の彼女がいます。
就職活動に悩む娘のことを心配しながら、
自分がなにもしてあげられないことに苦しむ
母親としてのとき子は、別人のように感じられるのです。
でもふと思うのは、
そういう「別人」のように感じられる部分も含めて
‘’どこにでもいるようなおばさん‘’
なのかもしれないということです。

そして、とき子の生活が中心に描かれるとき、
彼女の名前は「十喜子」と表記されます。
そこには、「ハタナカ」という
社会のなかにいるときの「とき子」とは違う
妻として、母として具体的な存在の
「十喜子」が表れています。
さらに他の人物の名前も、
漢字と仮名が使い分けられますが、
そのふたつの表記の揺れの中に
単純にひとつの像にはまとめてしまえない
人間というものが
見えてくるように思います。

「そういう一喜一憂を繰り返すことこそが、
十喜子にとっては日々を暮らすということだった。
むしろ人生には一喜一憂しかない、
と十喜子は感じていた。
えらい人は先々のことを見据えて
どうのこうの考えられて、
八喜三憂とかに調整できるのかもしれないけれども、
我々しもじもの者は、一つ一つ経過して、
傷付いて、
片付けていくしかないのだ。
そうする以外できないのだ。」

まさにとき子の感じていることが
生きている人たちの実感です。

登場する人たちはみなひとりで生きています。
家族や恋人がいても、ひとりで地に足をつけて
懸命に生活を営んでいる。

この小説は、自分の人生は
自分が生きるしかないのだという
当たり前のことを再認識させながら、
それと同じくらい、
自分以外のだれかの生活と交わることの
あたたかさやたいせつさも教えてくれます。
そのある種突き放したような冷静さと、
家でも職場でもない「ハタナカ」という場所を中心に
自然に生まれている親密さの両方が
心地よいバランスで
この小説の通奏低音として流れています。

人との関わりはめんどくさいことも多く、
だからこそ悩んだり傷つくこともある。
実際、ここに登場する彼女たちはみな
程度の違いはあっても、
人間関係の問題に直面してきています。
でもその「めんどくささ」が
人生を動かしているのも確かです。

ただ、同時にそういうことが
全く教訓めいていないのは
ここに出てくるだれもが
人生を「わかる」ものではなく
「生きる」ものだと
思っているからなのではないでしょうか。
さらに言えば、思っているというほどの
意識もしてないかもしれず
彼女たちはみな「生きて」います。

タイトルになっている「ポースケ」は、
ノルウェー語の復活祭(イースター)を
意味するようです。
「ハタナカ」でおいしいごはんを食べて、
また明日からの日々をがんばる彼女たちのように、
生活の中で受けたいろんな傷から復活することを
わたしたちも繰り返しているんだと思います。

こういう彼女たちのような人たちで
世界が作られているのだなと思うと
この日常がいとおしくなり、たいせつにしたくなる。
だから津村さんの小説を読みたいと、手に取ります。

ちなみに、この『ポースケ』は、
津村さんが芥川賞を受賞した
『ポトスライムの舟』と
地続きの物語です。
『ポトスライムの舟』の5年後の世界。
彼女たちも、わたしたちも、
これからも生活は続いていくのです。
(『ポースケ』だけ読んでも、もちろん楽しめます。)

(つづく)

2020-05-01-FRI

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