ウクライナ戦争のことは胸の痛む話が多いですが、
きちんと知っておきたい気持ちがあります。
『ウクライナ・ダイアリー』の著者で、
キーウに暮らすジャーナリストの古川英治さんが、
日本に一時帰国されているときに、
「ほぼ日の學校」で現地の話をしてくださいました。
「戦時下でも、ウクライナの人々は
前を向いていて明るい」と古川さんは語ります。
また、昔から食べられてきたパンの存在が、
人々の生活を支えているのだとも言います
(しかもそのパンは、すごくおいしいんだとも)。
ニュースだけではなかなか知るのが難しい
そこに暮らす普通の人たちの話をきっかけに、
気持ちをすこし、ウクライナに向けておきませんか。

※この対談は、2023年10月におこなわれたものです。

>古川英治さんプロフィール

古川英治(ふるかわ・えいじ)

1967年、茨城県生まれ。
早稲田大学卒業、ボストン大学大学院修了。
93年、日本経済新聞社入社。
モスクワ特派員(2004~09年、15~19年)、
国際部編集委員などを歴任。
その間、イギリス政府のチーヴニング奨学生として
オックスフォード大学大学院ロシア・東欧研究科修了。
2021年に退社し、
現在はフリーのジャーナリストとして、
ウクライナで取材を続けている。
著書に『ウクライナ・ダイアリー 不屈の民の記録』
(KADOKAWA、2023年)、
『破壊戦 新冷戦時代の秘密工作』
(角川新書、2020年)がある。

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(8) 愛を語るより、パンを語るほうが。

古川
さっき言ったように、僕は昔から
「アメリカ人」と呼ばれる感じだったので(笑)、
日本ではちょっと馴染めないところが
あったんだけど。
日本ってやっぱり、いろんな意味で、
「空気」みたいなもので決まることが多くて。
僕としては
「あ、なんでも自由じゃないんだ。
それ、ほんとに自由と言えるのかな?」
みたいなことも思うわけです。
糸井
ああ、なるほど。
古川
よく考えることなんですけど、
英語に「シチズン(citizen)」という
言葉がありますよね。
日本だとあまり根付いてない言葉だと
思うんですけど。
日本語にすると「市民」。
ただ、日本だと
「町田市民」「さいたま市民」みたいな
言い方はありますけど、またちょっと別の感覚で。
日本の市民ってわりとみんな
「国民」という言葉を使いますよね。
糸井
そうですね。

古川
「シチズン」って、権利と義務があるわけです。
義務もあるけど、それぞれの人たちは
自分たちの権利を守るために、
たとえばデモをしたりもするんですね。
ウクライナもそうですけど、
僕が行ってた国の大半はデモがあって、
そういう取材もいっぱいしてきたんです。
だけど日本の人たちには
「シチズン」みたいな意識はあまりないし、
デモもないんですね。
ほんとは日本も、経済政策がこれだけ停滞してて、
政府のやりかたを変えたほうがいいんだったら、
「選挙」「デモ」「集会」というのが
おそらく権利義務で、自分たちが訴えられるところ。
労働組合が「賃金安いぞ」とみんなでデモをして、
主張を勝ちとるのは、権利のひとつなんです。
でも、日本はそこがないじゃないですか。
糸井
ええ。
古川
まぁただ、先日沖縄の方と話をしてたら
「いや、沖縄はデモありますよ」
と言っていたんです。
「沖縄ではオスプレイ配備のときも、
別の問題のときもデモをやったんだ」とかって。
そこで彼が言ったのは
「我々の歴史を見てくれ。戦争があったから、
沖縄人はデモするんだ」と。
ウクライナの話と同じだと思って、
僕もちょっと発見だったんですけど。
糸井
これは昨日、僕も人から教えてもらって
気づいたばかりの視点なんですけど、
「パフォーマンス」という概念が
なにかヒントになるんじゃないかな、と思って。
「パフォーマンス」って日本語だと、
「どうせパフォーマンスでやってるけどさ」とか、
あまり良くないイメージで
使われることもある言葉ですけど。
古川
はい、パフォーマンス。
糸井
それで昨日は、スポーツに関する話のなかで、
実際のところ「力を出す」というのは、
「パワー」ということ以上に、
「パフォーマンス」の部分が
とても大事なんじゃないかということを
言っていたんですね。
持っている力の大きさもあるけど、
それをどう発揮するかで、結果が変わってくる。
「人間はみんなパフォーマンスをしている」
というところで話をしていたんですけど。
古川
ああ。
糸井
で、デモって、いまの日本だと
参考書に出てくるような言葉として、
構造がすでにできあがっちゃってるんですよね。
だから「デモに参加する」というと、
そのできあがっている構造のなかに
自分が入っていくイメージで、
日本人がどうデモを苦手にしているか、
僕はよくわかるんです。
ただ、デモというものについても、
「パフォーマンスを発揮するには」
みたいな視点で考えていくと、
やり方はあるな、と思うんです。
古川
視点をこう、変えると。

糸井
ええ。というのが、日本の人たちも、
デモという形で行動することは少なくても、
なにか問題が起こったとき、
「あなたにもなにかできるよ」
「え、寄付するだけでいいの?」
とかだったら、案外みんなするんですよね。
だから、今日のウクライナの話にしても、
なにか心が動いて、
「自分にもなにかできないかな?」
とか思う人は、やっぱりいると思うんです。
そのとき、セットメニューのように
「じゃあデモだ。国会の前に集まりましょう」
ということだと難しくても、
「どうすればパフォーマンスを発揮できるか」
まで戻って考えて、
「音楽でやるぞ」とか「行くぞ」とか、
「これもあったり、あれもあったり」みたいに
いろんな選択肢が見えてきたら、
そこで手伝う人はいると思うんですね。
たとえばちょうど古川さんが
『ウクライナ・ダイアリー』というこの本で、
あとで戦場で心を病んでしまった
ユーモラスな人に注目して、
「冗談ばっかり言ってるこの人が
生き延びたら面白いぞ」と書いているのって、
「感じ方のパフォーマンス」じゃないですか。
古川
ああー。
糸井
‥‥みたいなところに、僕はまだ
希望がある気がしてならないんですよね。
やっぱりなにかを解決しようというとき、
決まりきった方法しか行動を選べないとなると、
そこでパフォーマンスを発揮するのって、
なかなか難しかったりしますから。
その意味で、いま、戦争のことを考えるときに、
セットメニューのように使われている
いろんな言葉というのも、
「そもそもなんだっけ?」みたいに
概念の再検討をしたほうがいいものが
あるんじゃないかな、とは思いますね。
古川
それでいうと、僕がよく思うのが
‥‥「中立」?
「新聞記者の中立」とかよく言いますけど、
この言葉もちょっと疑ったほうがいいと思うんです。
糸井
ああ、「中立」ね。
「中立」「平和」は便利ですよね。
それは「愛」もそうなんですよ。
古川
そうですね、「愛」も(笑)。
糸井
「平和」も「中立」も「愛」も便利だから
よく使われる言葉ですけど、
実はそれを掲げて殴りかかることだって
できちゃうんですよね。
ロシアだって「救い出す」という言い方で
戦争をはじめてるわけで。
「愛があれば」とかも言われたりしますけど、
たとえばドラマとかを見ていても、
「その愛のせいで人々の生活が壊れる」
みたいなことだって、実は「愛」にはありますから。
だから物事って、その都度みんな違ってて、
「そんなに簡単には言い切れないぞ」とか
どこかで思っておかないと、
変な方向にも行きかねないと思うんです。
そのときに古川さんは、
パンの話を出してきた、みたいな。
古川
ああ。そうですね。
糸井
この物語におけるパンの位置って、
ものすごく大きいですよね。
パンには香りがあって、それこそ生きていく糧だし。
「人はパンのみにて生くるにあらず」のパンだし。
表現として、「愛」を語るよりも
「パン」が出てきたほうがいいと
僕は思うんですよ。
「最後に残っていたのは愛だったんですね」より、
「パン屋にみんなが集まってるんです」
「この地区からパン屋をなくさないために
みんな頑張ってるんです」のほうが、
すごいことだと思って。

古川
あのね、そのパン屋に集まる人たちがまた、
いい顔をしてるんですよね。
糸井
その「顔」というのもいいですよね。
古川
香りがふわーっとただよって。
店に来た人たちが「わぁーっ!」と喜んでて。
戦禍のなか、みんな、ほんとのスマイルでね。
そこでみんながするのはパンの話だし。
その焼きたてを、ひとっくち食べるとね。
いや、ほんとにシンプルなパンなんですよ。
もう涙が出そうになりましたよ。
糸井
いや、聞いてても涙が出そうになりましたよ。
それはウクライナの穀倉地帯につながってるし。
同時に、飢え死にさせられた先祖にも
つながるわけだし。
古川
そういうものが全部こもっているんです。
糸井
で、その全部こもってるものとしてのパンを、
ごくんとのみこんだときに、
いきものを生かす材料に変換していくわけですよね。
パンですらなくなった状態で、
栄養になってるわけですよね。
これねえ‥‥愛を語るより、
パンを語るほうがね。
古川
そうですね。パンがいいですね。
糸井
それまで「自由」という概念を中心に
人が集まってたのを言い換えた言葉が、
おそらく「生存」だったんですよね。
「自由のために戦う」が「生存のために戦う」になった。
だけど「自由」も「生存」も、
言語体系としては一緒のとこに入るんで。
「生存」には香りもないし、
焼いてるおばさんの笑顔もない。
「生存」をテーマに考えていくと、
生きるか死ぬかの、死体の話になっちゃうわけですよね。
「息してる‥‥生きてるぞ」「死んでるぞ」が、
「生存」の実体で。
だけどそこをつなぐ「パン」というのは、
「パンは愛より芳(かんば)し」というか。
古川
香りとか、見た目とか、手触りとか、
噛み締めたときの味わいとか。
五感でいちばん感じることができるのが
「パン」なんでしょうね。

(つづきます)

2024-02-16-FRI

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  • ウクライナ・ダイアリー
    不屈の民の記録
    古川英治 著

    ウクライナ人の奥様とキーウに暮らしていた
    ジャーナリストの古川さんが、
    2022年2月の開戦前夜から、
    開戦1年後までの期間を中心に、
    人々とのいろんなやりとりや、
    体験したこと、感じた思いなどを
    「ダイアリー」の形で綴ったもの。
    ニュースではなかなか聞こえてこない
    そこに暮らす人々の様子から、
    ウクライナのいまが伝わってきます。
    Amazon.co.jpの販売ページへ)

     

    どのページにも人間の顔と声がある。
    そして、書き手の息の音が聞こえてくる。
    (糸井重里の帯コメントより)

     


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