
突然ですが、わたしは卑弥呼が好きです。
幼い頃、吉野ヶ里遺跡で大発見があり、
地元佐賀に卑弥呼がいたのではないかと、
連日お祭りさわぎになっていたことが、
強く影響しているように思います。
そのニュースの発端になったのが、
“卑弥呼は九州にいた”と唱える、
『ミスター吉野ヶ里』こと、高島忠平さんです。
85歳で、まだまだ研究を続けられている、
そんなスーパースターに
「ただただ卑弥呼について話したい」
という願いを聞き入れていただきました。
担当は「ほぼ日」下尾(しもー)です。
協力:国営吉野ヶ里歴史公園・佐賀県文化課文化財保護・活用室
高島忠平(たかしま・ちゅうへい)
福岡県飯塚市出身。熊本大学文学部文科東洋史専攻を卒業。
1989年より行われた吉野ヶ里遺跡の発掘調査に際し、保存設備の計画・指揮をとる吉野ヶ里遺跡保存対策室長に就任。「ミスター吉野ヶ里」と呼ばれる。
その後、佐賀県教育委員会副教育長、兼県立名護屋城博物館館長などを務めたのち公職を退任。1999年より佐賀女子短期大学教授に就任し、2002年から2010年3月までは同短大学長を、退任後は学校法人旭学園の理事長を務める。
大学時代は立岩遺跡。奈良国立文化財研究所に勤めてからは平城京跡、平城京羅生門跡、じょうべのま遺跡。両親の出身地である佐賀県に職場を転じてからは、安永田遺跡、菜畑遺跡、名護屋城跡、柿右衛門窯跡、肥前国分寺跡、肥前国府跡、そして吉野ヶ里遺跡など、数々の考古学上の重要発見に携わる。
- ──
- わたしは佐賀県唐津市生まれです。
1989年、吉野ヶ里遺跡の大発見が、
卑弥呼に憧れるきっかけだった気がします。
あの報道は高島さんが発端だったんですね。
- 高島
- あの頃は目立って
テレビや新聞に出ていましたので、
厚かましくいろんなことを
しゃべっていたと思います。 - 私も実はあなたと同じ、卑弥呼のファンです。
- 高校時代から、
考古学の郷土部というクラブ活動に所属して、
いろんな遺跡の発掘をするようになりました。
クラブのみんなにとっても、憧れは卑弥呼さんでしたね。
- ──
- 今日は、その卑弥呼が
どんな人だったのかということを、
妄想も含めて、お話できたらうれしいです。 - まず卑弥呼のことって、
「よくわからない」というところが
魅力的なんじゃないかと思っているんです。
- 高島
- そうですね。
『魏志倭人伝』という中国の歴史書、
2000文字足らずの中に出てくる登場人物、
卑弥呼さんは、歴史書を読んでも、
よくわからないことがたくさんあります。 - 考古学や歴史学の研究者も、
みんな卑弥呼さんが大好きなので、
自分の出身地に卑弥呼さんがいたんじゃないか、
実は、そういう気持ちで、
自分の学問をやっている人が多いわけですよね。
- ──
- えーっ。
みんな卑弥呼のことが、
好きすぎるんですね(笑)。
- 高島
- 私は奈良の国立文化財研究所に就職しましたが、
あるとき邪馬台国論争をしようということになったんです。
だけど誰も九州説に手を挙げない。
- ──
- その当時、九州説は弱かったんですか?
- 高島
- いや、今でも弱いですけど(笑)。
その当時は小林行雄さんという、
京都大学のすごい先生が、
鏡に関する非常に優れた緻密な論文を書いたので、
それにすぐ反論できるような人は誰もいませんでした。 - ところが坪井清足(つぼい・きよたり)さんという、
当時の研究所のキャップが、私の顔を見て言ったんです。
「お前さんは九州出身だったよな。九州説をやれ」と。
もちろん、憧れの卑弥呼さんなので、
心情的には九州説だったんですけれども、
当時有力な小林さんの説があるのに、
とても手を挙げられなかったんです。
- ──
- そんな中、名指しされたんですね。
- 高島
- 2週間ぐらい時間をもらいました。
そして私なりの九州説を研究発表したんですが、
こてんぱんに、やられました。
考古学の研究者が40人ぐらいいたと思うんですけれども、
39対1でしたね。
- ──
- ひゃー。近畿説が圧倒的だったんですね。
- 高島
- 尊敬している佐原真さんという大研究者がいて、
私が吉野ヶ里の発掘を通して九州説を唱えていたときに、
「君の九州説のエネルギーは、あのときの怨念だよね」
と言われたことがあります。
だから卑弥呼さんは、そういう想念の存在ですよね。
- ──
- 強い想いが研究への第一歩なんですね。
- 卑弥呼に関する記述は、
『三国志』の中の『魏志倭人伝』の
1節に出てくる記述のみということで、
ちょっとだけ、その記述を
高島さんの本の中から読んでみます。
- ──
- まずこの部分ですが、
もうここで既にしびれるというか、
70~80年、いろんな男の人が王様をやってきたけれど、
みんな争っていて、卑弥呼が王になったら、
おさまったよということですよね。
これって超すごいことですよね!?
- 高島
- そうですね。
僕は想念の卑弥呼と言いながらも、
ずっと研究してきた中で、
最近の邪馬台国論は、ずいぶん変わってきました。
どういう視点かというと、
さっき読まれたとおり「倭国」なんですね。 - 倭国というのも、
これは中国の言葉なんです。
倭国という称号は、
紀元1世紀に始まり7世紀まで、
ずっと続いているんですよ。 - 日本という独自の名称を持つのは、
7世紀の終わりぐらいですから。
倭国の変化を1世紀から見ていくと、
日本の古代国家成立の重要な指標になるわけです。
- ──
- 邪馬台国は、その倭国の中のひとつですよね?
- 高島
- そうです。そして倭国というのは
『魏志倭人伝』によれば、
30足らずの国をまとめた、
ひとつの連合みたいなものですね。
その倭国連合のひとつが邪馬台国で、
その倭国の連合の王である女王卑弥呼の
都を置いたところが邪馬台国なんですね。 - 中国の漢字辞典、今で言う字の起源の
ルーツを説明する辞典は2世紀にできています。
その中に「都」というのは
「祖先の墓、廟(びょう)があり、
かつ、そこでいろいろな神々をまつる
社稷(しゃしょく)という祭壇があるところで、
その周りは土塁で囲まれている」
ということが書かれています。 - ですから、都というのは
倭国の政治と祭り、祭祀の場所なんですね。
そして、そこから考えると、
卑弥呼は邪馬台国の王ではなくて、
倭国の王なのです。
- ──
- 都という文字を読み解くだけでも、
そんなことがわかるんですね。
- 高島
- 倭国の歴史的な変化を見ていくと、
最初に金印が贈られたのは紀元57年。
「漢委奴国王」という金印が贈られます。
もう倭として、
一定の国々のまとまりが存在したわけです。 - それより50年前、紀元5年ぐらいですね。
中国を支配していた、
王莽(おうもう)の新という国が、
前漢と後漢の間にありました。 - この人物がまだ漢の官僚だったときに
奏上した文書の中に、
詳しいことは省略しますけれども、
東のほうの野蛮人の王が、
大海を渡って珍しい宝物を献上した
と書いているんですね。
- ──
- 王莽さんは、
贈り物をもってきた相手のことを
野蛮人の王と思いながらも、
その贈り物は気に入ったんですね。
- 高島
- そして王莽は、
それまでの前漢がやっていた
支配の秩序制度を変えたんです。 - 自分独自の制度をつくって、
改めて金印を渡したりして、
周りの国々を支配、統率しました。 - ところが、残念ながら
東夷の王は金印をもらえなかった。
まだ倭国というひとつの政治勢力としては
認められず、どうも野蛮人扱いをされて、
中国からは贈り物だけもらったみたいです。
その贈り物が、実は唐津から出土している。
- ──
- えっ! 地元なのに知らなかったです。
社会の授業で弥生時代に
「ムラからクニ」になっていったと習いましたが、
国として扱うかどうかは、
中国が決めていたということなんですね。
- 高島
- そうですね。
中国としては、ちゃんと統治組織を持っていて、
領域があって、統治される人たちがいる。
この3つの条件がそろうところを
国として位置付けているんですよ。
東夷は国として認められなかった。
- ──
- 贈り物が出土しているということは、
東夷の王って、
唐津の人だったんでしょうか。
- 高島
- 唐津の桜馬場遺跡から
「流雲文縁方格規矩四神鏡」という
後漢の鏡が出ています。
これは中国を通しても最大の鏡です。
23.3センチあります。
- 高島
- 銘文も非常にちゃんと整えてあって、
鋳上がりも良くて、
おそらくこれは新の王莽の工房で
つくられたものと考えていいと思うんですね。 - そうすると、ちょうど東夷の王が
中国に使者を送った頃と一緒なんです。 - 唐津というところは末盧国(まつろこく)として、
邪馬台国論争の中では軽く見られていますが、
最近の発掘で、大量の鉄の製品をつくった
アトリエが発見されています。
数千点も出てきていて、1カ所の遺跡から、
これだけたくさんの鉄製品や、
鉄くずが出てきたのは他に例がありません。
弥生時代中期の終わりごろ、
紀元1世紀以降のものなんですね。
当時の唐津には、鉄製品の生産を通して、
大きな力を持った勢力が、
のちに末盧国と言われる地域にいたと考えられます。
- ──
- 唐津生まれとして、
なんだか、うれしい話です。
(つづきます)
2025-12-12-FRI
