ジャズやロック、笠置シヅ子さんのブギウギなど
さまざまなジャンルの音楽に挑んできた
演歌歌手の神野美伽さんが、
こんどは「シャンソン」を歌おうとしています。
数千人規模の会場で演歌を歌っていたとき、
人知れず、
数十人の前でシャンソンを歌っていた神野さん。
コロナと手術で「歌」を禁じられたとき、
神野さんを救ったのが「オー・シャンゼリゼ」。
そんな神野さんが歌う「はじめてのシャンソン」、
本番は11月15日、会場は赤坂の草月ホール。
チケットは、まだ、手に入ります。
神野さんのシャンソン、ぜひ聞きに来てください。
きっと、すばらしい会になります。
担当は「はじめてのシャンソン」係の奥野です。

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第3回  泣けた、明るい歌に

──
パリのシャンソニエは、どうでしたか。
神野
カッコよかった。もう、それだけ。
それに、パリの街に歌があふれていて、
そのことにも感動しました。
わたしたちが舞台に立って
「演歌を歌います」というのとは、
まったくちがうかたちで、
街中いたるところに「歌があった」の。

──
街が、人が、歌とともにある。
神野
そう、そこで生きる人たちの人生ごと
「歌とともにある」感じでした。
でね、いまから思い返すと、
まだわたしが銀巴里にも通い出す前の
18歳のときに、
松原先生が、こうおっしゃったんです。
「きみはいつか、
さりげなくシャンソンを歌える歌手に
きっとなれるよ」って。
──
へぇー‥‥!
神野
そのときのわたしには、
まったくピンときていなかったというか、
先生の言葉を
にわかに信じることはできませんでした。
──
だって何せ「銀巴里の前」ですもんね、
18歳ってことは。
つまり、シャンソンを本格的に知る前。
もっといえば、演歌歌手として
デビューするかしないかくらいの時期、
だったわけじゃないですか。
神野
そうですね。まだデビューする前です。
そのころわたしは
シャンソンというジャンルの存在すら
知らなかったと思う。
それから数年後、
銀巴里へ導いてくれたのも松原先生で、
さらに数年後には、
パリへ連れて行ってくださったんです。
──
いろんなことを教えてくださったんですね。
神野
お芝居を教えてくれたのも、松原先生です。
先生との出会いがなかったら、
わたし、いまのようなスタイルの歌手には、
絶対なってなかったと思う。
神野美伽という、
いろんな「歌」を歌う演歌歌手を
つくってくださったのは、
間違いなく松原史明先生だと思っています。
──
なるほど。
神野
今回のシャンソンのコンサートだって、
見てほしかったのに。
でも、もう亡くなっちゃったんですよ。
入院していたこともいっさい言わずに。
亡くなったことさえ、
ぜーんぶ、あとから知らされたんです。
そういう先生でした。
──
そうでしたか。
神野
でもね、18歳‥‥
高校2年だから、17歳だったのかな。
まだ演歌歌手として生まれる前のわたしに
先生は言ったんです。
「きみには、シャンソンをはじめ、
いろんな歌を自然に歌っていられる歌手に
なってほしい。
きみなら、きっとなれるよ」って。
──
実際、そうなったんですもんね‥‥!
感動するなあ。
神野
すごいよね。運命を導く言葉だったと思う。
──
でも、そんなふうにして、
銀巴里で
シャンソンを聴くようになったわけですが、
その当時は、
どういうところがいいと思ってたんですか。
神野
泣けた。
──
泣けた。
神野
泣きたかったんですよ、すごく。わたし。
寂しくて、怖くて。

──
当時?
神野
うん。
だって、デビューしたときには、
同期が500人も600人もいたんですけど、
翌年には数人しか残らないんです。
──
えええ、そういう競争なんですか!
神野
大手の事務所に所属する人しか残れない。
しかも、その選ばれた中で、
ヒット曲をつくらなきゃいけないんです。
その重圧に耐えきれなくて、
怖くて、怖くて、当時はスケジュールに
「オフ」なんて書かれたくなかった。
──
あ、書かれたくなかった?
神野
うん。
──
つらいから休みたい‥‥じゃなくて。
神野
身体も心もボロボロに疲れて、
立ったままでも寝ちゃうくらいでしたが、
それでも、休みたくなかった。
だって、自分が休んでいる間にも、
どこかで誰かが歌ってると思ったら‥‥。
──
うわあ、そういう心境ですか‥‥!
神野
もう、「負けん気だけ」で歌ってました。
「何で、わたしは評価されないんだろう」
という悔しさのかたまり。
悔しいから歌う、負けたくないから歌う。
いまから思えば、
そんな歌手の歌には誰も共感できないよね。
──
いや‥‥すごいとしか。
神野
それでも泣けなかったんです。どうしても。
あのころのわたしは。
絶対に、外では泣けなかった。
まわりには、いつも誰かしら人がいたし。
仕事が終わったらアパートへ帰って、
ほんの数時間、寝るだけの生活をしながら、
すごく寂しかったし、怖かった。
──
それはつまり、売れない恐怖、ですか。
神野
そう。売れなかったら、
来年、自分はもういないんだっていう。
でも、たったひとりで銀巴里に行くと、
シャンソンの歌詞が、
まだまだ子どもだったわたしの心にも
響いてきたんです。
いまでもつよく印象に残っているのが、
シャンソン歌手というより
ミュージカルの方なんですけど、
荒井洸子さん。
その方の歌に、すごく救われたんです。
──
それは、どうしてでしょうか。
神野
明るかったから。
彼女の歌う歌だけが明るかったんです。
今回のコンサートではじめて歌う
「あわれなジャンの歌」もそうですが、
彼女が歌うと、
ひとりでも思わずクスッと笑っちゃう、
そんな歌を歌うんです、洸子さんって。
──
明るい歌‥‥に泣けた。
神野
はい。それで、すぐにお知り合いになって、
本当にいろんなことを教わりました。
いつかシャンソニエで歌ってみたいなあと
思っていたんだけど、
ついにあるとき洸子さんにくっついて、
街のシャンソニエ‥‥「蟻ん子」とか、
そういう店に連れていってもらったんです。
──
それはつまり、歌手として。
お客さんじゃなく。
神野
そう。
「うちはシャンソンしかダメよ」なんて
お店の人に言われたりしながら、
「はい、シャンソンを歌いたいんです!」
って(笑)。
──
歌ったんですか。
神野
歌いました。洸子さんが
「わたしが歌う日に、一緒に行こう」って
誘ってくださったんです。
洸子さんの楽譜をもらって、それを持って。
オフの日に小さなお店へ行って、
歌わせてもらったことが何度かありました。
──
シャンソンを。
神野
はい。
 
(明日へ続きます)

「Sweet memoris」 (bitter jazz Ver)
Mika Shinno with ASA-CHANG TRIO

松田聖子さんの永遠の名曲を、ジャズアレンジで聴かせます。バックを務めるのは、東京スカパラダイスオーケストラの創始者・ASA-CHANGさんのトリオ。会場は丸の内のコットンクラブ。演歌のときはまたちょっとちがう、グッと大人な雰囲気の神野さんですね。(奥野)

(つづきます)

2025-10-26-SUN

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