
- 終戦のとき、わたしの母はまだ4歳でした。
しかし、8月6日の後、命は助かったけど、
すべてを失ったたくさんの人たちが避難して来て、
母の家にも、2から3家族が
牛小屋の二階にしばらくいたことを覚えていると
言ってました。
母の家は農家でしたから、白米はないけど、
芋や豆などを、
そうした方たちと分け合っていたそうです。 - 戦後、小学校に通いはじめても、
食料難はなかなか解消されず、
おひるごはんどきになると、
避難して来た家族の子どもたちの多くは、
教室をそっと抜け出して、
校庭の隅の方で
おひるごはんが済むのを待っていたそうです。 - 母の母はそういうことを知っていて、
放課後やお祭りのときなどに
家に遊びに来た母の友だちやその兄妹にも、
おやつやごはんを食べていきなさいと
言っていたそうです。 - 後年、母の小学校の先生が何歳かになるお祝いで
同窓会が開かれたときに、
何人かの人が、
先生が修学旅行の費用を
こっそり出してくれたから行けたんだと
はじめて話して、みんな驚いたと言ってました。 - 小学校のときは、年に1回か、
くじ引きがあったらしく、
母は靴が当たってすご嬉しかった、
それまで草履だったからと
話してくれたこともあります。 - わたしは戦後生まれですが、自分を振り返ると、
小学校低学年のときのある日の全校集会で、
校長先生が、今日は沖縄が日本に返って来る日だ、
やっと返ってきますと話されたことを
何故か覚えています。 - それから、お正月や夏や秋のお祭りのとき、
神社の階段の途中に、
片足が義足の白装束の男の人が軍歌をかけながら
座っていたのを覚えています。 - また中国から毎年何回かたくさんの人が来日して、
毎日テレビで
自分が覚えている自分の名前や生い立ち、
家族のことなどを泣きながら話されて、
お父さんお母さん迎えに来てくださいと
訴えられていたことも覚えています。
新聞にも大々的に紹介されていました。
最初のころは、何人かは、
家族や親戚の方が見つかって
涙ながらに再会できていましたが、
だんだんそれも少なくなって、
ちいさいころは
どういうことなのかわからなかったのですが、
『大地の子』というドラマを見て、
戦時中の中国での悲劇を知りました。 - (ダケ)
2026-02-07-SAT

