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読者のみなさんから届いたお便り #117

 
終戦のとき、わたしの母はまだ4歳でした。
しかし、8月6日の後、命は助かったけど、
すべてを失ったたくさんの人たちが避難して来て、
母の家にも、2から3家族が
牛小屋の二階にしばらくいたことを覚えていると
言ってました。
母の家は農家でしたから、白米はないけど、
芋や豆などを、
そうした方たちと分け合っていたそうです。
戦後、小学校に通いはじめても、
食料難はなかなか解消されず、
おひるごはんどきになると、
避難して来た家族の子どもたちの多くは、
教室をそっと抜け出して、
校庭の隅の方で
おひるごはんが済むのを待っていたそうです。
母の母はそういうことを知っていて、
放課後やお祭りのときなどに
家に遊びに来た母の友だちやその兄妹にも、
おやつやごはんを食べていきなさいと
言っていたそうです。
後年、母の小学校の先生が何歳かになるお祝いで
同窓会が開かれたときに、
何人かの人が、
先生が修学旅行の費用を
こっそり出してくれたから行けたんだと
はじめて話して、みんな驚いたと言ってました。
小学校のときは、年に1回か、
くじ引きがあったらしく、
母は靴が当たってすご嬉しかった、
それまで草履だったからと
話してくれたこともあります。
わたしは戦後生まれですが、自分を振り返ると、
小学校低学年のときのある日の全校集会で、
校長先生が、今日は沖縄が日本に返って来る日だ、
やっと返ってきますと話されたことを
何故か覚えています。
それから、お正月や夏や秋のお祭りのとき、
神社の階段の途中に、
片足が義足の白装束の男の人が軍歌をかけながら
座っていたのを覚えています。
また中国から毎年何回かたくさんの人が来日して、
毎日テレビで
自分が覚えている自分の名前や生い立ち、
家族のことなどを泣きながら話されて、
お父さんお母さん迎えに来てくださいと
訴えられていたことも覚えています。
新聞にも大々的に紹介されていました。
最初のころは、何人かは、
家族や親戚の方が見つかって
涙ながらに再会できていましたが、
だんだんそれも少なくなって、
ちいさいころは
どういうことなのかわからなかったのですが、
『大地の子』というドラマを見て、
戦時中の中国での悲劇を知りました。
(ダケ)

2026-02-07-SAT

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  • ヴェトナム戦争/太平洋戦争にまつわる
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    テーマや話題は何でもけっこうです。
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    その中から、
    「50/80 ヴェトナム戦争と太平洋戦争の記憶」
    の特集のなかで、
    少しずつ紹介させていただこうと思います。

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    特集 50/80 ヴェトナム戦争と太平洋戦争の記憶