
- わたしの在籍していた大学では、
ベトナムからの留学生を受け入れていた。
そこまで昔のことではないが、
彼が九州にある特攻記念館を訪れたときに語った話は、
これからも決して忘れることはないだろう。 - その記念館には、復元された軍用機、
たくさんの戦死された将兵の顔写真、
家族たちへの手紙が残されている。
内外からやって来る多くの来館者は、
人々がたしかに生きていたそのような証しを目にし、
先の大戦で失われた若い命、
平和の貴さをかみしめて帰る。そういった場である。 - 彼は長いこと、その記念館を訪れたかったそうであり、
感傷的にその場に長くとどまり、
展示物を目にして帰ってきた。
わたしは当然、その場を訪れた多くの者と同じように、
彼もまた戦争の悲惨さと不戦の誓いとを、
新たにしているのだろうと思っていた。
その予想は、いささか異なる方向から覆される。 - 彼は言った。これまで、自らの死を前提に
爆弾を身につけて敵に飛び込んで戦ったのは、
ベトナム人だけだと思っていた。
今、彼は、
彼らだけが特別な存在ではなかったことを実感し、
先人たちの姿に感銘をうけ、涙を流したのだ、と。 - 少し後に知ったことだが、
いわゆる「ベトコン」である南ベトナム民族解放戦線や、
北ベトナム政府の正規軍たるベトナム人民軍は、
地雷や鉄条網などの障害で守られた米軍や
南ベトナム軍の拠点に対し、
くじ引きなどで選ばれたとされる要員を
自爆させる戦い方をしていたのだという。 - 悲しみとは元来相対的なものではあるが、
先の大戦の悲惨さを鑑みても、
あまりにも凄絶な歴史である。
今は分からないが、当時の学生や教員には、
ベトナムの人民にとって、
戦争の歴史は神聖と言ってもよいほど
特別なものであるため、
話題は避けるのが無難と喚起されていたのだが、
なるほどうなずける話であった。 - 彼が特攻記念館で見ていたのは、
紛れもなく1945年夏の敗戦までに
自らの命を捧げて散った帝国陸海軍将兵の姿であった。
もちろんそれは、わたしが見ていたものと同じである。
だが彼は、先の大戦に関する展示物を通じ、
彼の認識では、特攻隊員と同じように、
戦争を戦っていたベトナム人民の歴史をも
追体験していたのだ。 - 彼の紡ぐ言葉は、
おそらくは日本の一般的な平和教育を受けてきた
わたしを混乱させるのに十分であった。
「特攻隊員」か「革命闘士」か。
それは「聖戦」なのか「解放戦争」なのか。
背負っていたのは「祖国」か「国体」か、
「人民」か「臣民」か、はたまた「家族」のであったのか。
特攻隊員の遺書は、家族に対する思いがあふれている。
果たしてベトナム戦争で自爆して
敵と戦った人々もまた、そうであったのだろうか。 - また、そのときわたしは愚かにも、彼が日本で
「平和の大切さ」を学んで帰ってくれるだろうと、
無意識に思い込んでいた自分自身に気づいたのである。
この誇り高き異邦人に対し、
なんと不遜かつ礼を失した啓蒙的姿勢であったことか。 - 平和を大切に、
命を大切にという言葉を口にするのは容易い。
果たして我々はどれ程さの言葉が放つ意味について
考えられているのか。
考える努力をしてるといえるだろうか。
わたしは日本にしか発信できない
平和の貴さがやはりあると考えているが、
それが我々の意図しているように伝わっているとは、
必ずしも限らないことを知ることができた。 - あれから、いくらか時が流れたが、
未だ世界からは戦争も飢餓になくなっておらず、
各国各地域に、それぞれの悲劇と、
その受け止め方とがあるのだろう。
国境を超えたネットが星を覆い尽くし、
グローバル化されたからこそ、
より気がつきやすくなったといえるかもしれない。 - 当時の大学にはアメリカからの留学生も当然おり、
国名のアルファベット順から、
アメリカとベトナム両国の国旗は隣り合っていた。
戦争はもう何十年も前の話であり、
留学生間のわだかまりはないと言った職員もいた。
わたしのまわりでも、
ベトナムの留学生と米国の留学生の交流は
ごく一般的なものであり、
時にはアメリカ軍の兵士と
ふつうにやり取りをする姿さえ珍しくはなかった。 - そんな時代の出来事であった。
- (Tさんの後輩)
2025-11-14-FRI

