
- 家族が書き残したり、
直接、聞き書きしたりしたものの中から、
戦争時代の話を抜き出してお送りします。 - 小川荘六(父 昭和10年生まれ)
- 町内会長をしていた父は、警戒警報のサイレンが鳴ると、
何をおいても町内会館に詰める。
四六時中サイレンが鳴るそんな状況の中でも、
東京物理学校(現・東京理科大)の学生だった兄の省二
(大正13年生まれ)は、
黒い大きな布で包んだ伝統の下で勉強していた。
巡回している隣組の役員に「
二階から明かりが漏れていますよ」と注意されることも
たびたびだった。 - 兄はこの戦争に懐疑的で、父としばしば口論していた。
当時、肋膜を患い、
新旧試験を受けられずに留年していた兄は、
学内で「理論物理学より応用物理学の方が後になる」との噂から、
倍率の高い応用物理学科を受けて進級した。 - 兄と同じく一年生を留年していた親友の川井さんは、
我が家に入り浸っていた。
あまりにうちに来るので、
国民学校に入ったばかりの私は下宿しているとばかり思っていた。
川井さんは留年中途で進級をあきらめ、
日本海軍の予備学生制度に志願し、海軍少尉となった。
戦争中のある日、我が家にやってきて
「今度、人間魚雷に乗ることになりました。
生きて帰ることはないと思います。
天皇陛下からとこれを渡されました。
お父さん、たいへんお世話になりました」
と、父に恩賜の煙草を差し出した。
息子のように可愛がっていた川井さんの言葉に、
父はしばらく無言で立ち尽くしていた。
その川井さんが、敗戦直後の10月ごろ、
ひょっこり我が家に顔を出した。家中が大騒ぎになった。
魚雷には乗ったものの、敵艦が見つからなくて、
仕方なく帰還したとのことだった。 - 兄は結局、戦争に行かずにすんだ。
昭和20年、少しでも早く学生たちを徴兵するため、
すべての大学や専門学校の卒業が半年早められることになり、
翌年3月に卒業予定だった兄も、9月には学校を出て、
航空技術見習士官となるはずだった。
戦時下の中途半端な授業しか受けられなかった兄は、
もう一度学びなおしたいと考えていたが、
地元の県立高校の校長に熱望されて、
科学と物理を担当する教師になった。
「横浜に空襲があって、米ガ浜(横須賀)の海から
火の手と煙が上がるのを見てたら、
すぐ近くをトットットって機銃掃射されたんだよ。
横浜に爆弾落とした帰りがてら、
遊び半分で撃って来たのかもしれないけど」 - 「ひとつ上の顕子(昭和9年うまれの四女)は体が弱くて、
腎臓が悪かったから塩っ気のあるものは食べさせられないんだよ。
だから戦争中も一人だけ甘いもの食べてて
うらやましかったなあ。
ずるいって騒ぐと10歳上の姉ちゃんにすげえ怒られた。
両親がそうして一生懸命栄養摂らせてた甲斐なく、
戦争が終わる前に死んじゃったけどな」 - 「その幸枝姉ちゃん(大正15年生まれの二女)と
およし(昭和7年生まれの三女・好子)は戦後に疎開したんだよ。
横須賀は海軍の基地を米軍に取られちゃったし、
街に米兵があふれて
「男はみんな殺されて、女はみんな襲われる」
って噂があったから。
そう長い期間じゃなかったけど、
疎開先の長野では物資もなくてだいぶ苦労したみたい
(その後、幸枝は肺結核で21年4月に死去)」 - 「博源(ひろもと・大正3年生まれの腹違いの長兄)は
志願兵だったのかなあ。赤ん坊の俺を抱っこしてる写真があるけど、
その時もう兵隊の恰好してる。
沖縄で6月22日に戦死したってことになってて、
平和の礎に戦没者として名前も刻まれてるけど、
戦後、沖縄で一緒だったって人が家を訪ねてきて、
『私は膝を傷めてたから、
岩場を回りながらしか移動できなかったけど、
博源さんは元気に岩の上を飛び移っていた』って話してさ。
それが八月15日の後のことだっていうんだよ。
だから親父は
『沖縄のどこかで先生にでもなっているんじゃないか』って。
『もしかしたら』って死ぬまで(昭和48年没)思ってた。
沖縄、行きたがってたよ。一度もいけないままだったけど」 - (みの字)
2025-11-04-TUE

