
- わたしには、母方の祖父が「2人」います。
- 1人は、母の実の父親で、新聞記者でした。
- 体が弱かったので徴兵検査でははねられたのですが、
新聞に反戦記事を掲載していたため軍から目をつけられ、
太平洋戦争の終戦間近に、ルソン島へ送られました。 - 現地でマラリアにかかってしまった祖父は、
終戦時に引き上げる際、足手まとい扱いされ、
まだジャングルに潜んでいる仲間たちへ、
終戦の伝令に出されました。 - しかし、途中で力尽きてしまい、
祖父が戻って来ることはありませんでした。 - 後日、祖父の伝令のおかげで引き上げて来られたという方が、
祖母を訪ねて来られ、
祖父は木にもたれて座った状態で息絶えていたと、
最後の様子を伝えてくれたそうです。 - その後、祖母は母たち3人の子どもを抱え働きに出て、
そこで知り合った9歳年下の男性と再婚しました。
その人が、わたしたち兄妹と従兄弟にとっての祖父でした。 - 祖父は、16歳で少年志願兵として出征しました。
海軍配属となり、祖父もフィリピンに行ったそうです。 - 戦地では、海を泳いで移動することもあったと、
昔、祖父が話してくれたことがあります。
軍服を着たまま、頭に木の枝をくくりつけて泳ぎ、
敵の飛行機が近づくと全員で固まり、
島のように見せ、やり過ごすのだそうです。 - そのため、敵機に見つからないよう、
波を立てず静かに泳ぐ技術、「島」になっている間、
じっと動かず立ち泳ぎをする技術を習得したそうです。 - わたしたちが子どものころ、従兄弟と兄は、
祖父から軍隊式の水泳を厳しく叩き込まれました。
そのおかげで兄は泳ぎが得意になり、
高校では水泳部、大学ではダイビングサークルに入りました。 - わたしは女の子だからと優しく教えてもらいましたが、
運動神経の鈍いわたしが平泳ぎだけは得意なのは、
祖父のおかげです。 - 祖父からは、戦地では食べる物がなく、
とにかくいつもお腹が空いていたと聞きました。 - あまりの空腹に、野豚や蛇を捕まえて、焼いて食べたそうです。
蛇は滋養が強すぎて、
翌日は全員お腹を下したんだと、笑っていました。 - ただ、実際の戦闘の話や、軍隊の話など、
過酷な話は聞きませんでした。
たくさんの戦争経験者の方と同じく、
祖父も思い出したくなかったのだと思います。 - 祖父は、祖母と結婚した際、
祖母や母たちが苗字を変えるのは可哀想だからと、
戦死した祖父の苗字を名乗ってくれました。 - また、戦死した祖父を「仏さん」と呼んで仏壇を大切にし、
毎朝、時間をかけて念仏を唱えるのが、祖父の日課でした。 - 祖父は、戦死した実の祖父の無念の思いを、
身をもって理解していたのだろうと思います。 - 毎年、夏休みには、大阪在住の祖父母を
東京在住の私たちが訪ねていたので、
祖父母が東京に来たのは数えるほどでしたが、祖父はずっと
「東京に行って、靖國神社で仏さんをお参りしたい」
と言い続けていました。 - 希望が叶い、靖國神社に祖父が参拝できたのは、
祖母が亡くなった後、
しばらく母のところに身を寄せていた時でした。 - 祖父はそこで、自分の役目を終結すると決めていたようで、
仏壇を整理し、祖父と祖母を永代供養にしました。 - その後、父が癌を患い、母が看病に専念するため、
祖父は大阪に戻り、
叔母がお世話を続け、96歳で亡くなりました。 - 戦死した祖父の代わりとし生きてくれた祖父でしたが、
生(な)さぬ仲だった母たちとは確執もあったそうで、
母は実家の仏壇に祖父の写真を置いていません。 - 母は実の父の記憶がほぼなく、
それがかえって思慕の気持ちを強くしているようです。 - 自身が高齢となった今は、
出征前に撮った家族写真や、
戦地から届いた実の父からの手紙を、
毎日のように眺めています。 - 祖父は祖母より9歳も若かったため、
母とは16歳しか違わず、母や叔母が若いころは、
近所の人から口性ない噂を立てられたこともあり、
また、祖母との結婚を反対していた祖父の親戚から、
母たちは厄介者扱いされていたそうで、
辛い思い出として母の記憶に刻まれているため、
祖父の写真を置こうとしない母を、
わたしたち兄妹は責めることはできずにいます。 - 祖父が大好きだったわたしたちは、
いずれ母が天に召されたら、
仏壇に祖父の写真も加えてあげたいと考えています。 - 戦争で人生を狂わされた2人の祖父と、その家族でした。
今も世界のあちこちで起きている戦争の犠牲者は、
罪のない一般市民です。 - 戦争以外での平和的解決に、
世界中が駆引などなく真剣に取り組んで欲しいと、
切に願います。 - (もつ)
2025-10-30-THU

