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読者のみなさんから届いたお便り #54

 
母カズの太平洋戦争の記憶。
ここから先は、現在89歳のカズが主人公です。
カズは太平洋戦争が激しくなったころ、
荻窪から三鷹に疎開しました。
理由は、集団疎開の対象になってしまい
(長女カズ小学校3年)、カズの祖母がかわいそうにと、
祖母とカズ2人でカズの叔父の家に身をよせました。
実の母と弟妹兄弟3人は、
父ひとりを荻窪に残し(逓信省勤務、さすがに大事な会社)
実母の実家の茨城に疎開しました。
カズは家族と離ればなれになり、
とてもさびしく悲しい毎日だったそうです。
三鷹でも通学路に防空壕があり、
サイレンが鳴ると、隠れながら通学、
授業は林の中に隠れて行っていたそうです。
学校の話としては、日本史を学ばせてくれなかったそうで、
いまでも日本史はわからないと話しています。
昭和20年の3月の大空襲は、
三鷹の町からでも
都心の方角の空が真っ赤になっているのが見えたそうです。
その空襲の酷さに、荻窪の父が長女カズも
茨城に行ったほうがいいと判断し、
1年ぶりに母親と兄弟のもとへ疎開することになりました。
20年の夏に戦争は終わりましたが、
焼け野原で食料事情の悪い荻窪にはなかなか戻れず、
牛小屋となりの納屋で母と子ども4人で暮らしていました。
戦地で戦ってきた叔父が帰ってきたときは、
よかったねとみんないいながらも、
人が変わった怖いおじさんになってしまい、
近づけなかったそうです。
それから1年ほどして、
父が迎えにきて荻窪へ家族で戻りました。
茨城での疎開先は3家族が実家にすがり身を寄せ(4世帯)、
同じ年ごろのいとこたち総勢15人で
野山を駆け回っていたことは、
いまでも忘れられない、深い深い思い出だそうです。
長々と失礼しました。当時をとても鮮明に記憶していて、
書ききれないほど語るカズでした。
カズは自分が亡くなったら、
思い出の茨城の海に散骨してほしいと、
20年くらい前からの約束になっています。
(うみちゃん)

2025-10-03-FRI

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    特集 50/80 ヴェトナム戦争と太平洋戦争の記憶