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読者のみなさんから届いたお便り #13

 
父方の祖父の誕生日は8月15日。
そして、昭和20年8月15日に
特攻隊として出撃する予定だったそうです。
田舎の農家の次男坊で、当時20代半ば。
その2ヵ月前に、
待望の第一子長男である父が生まれたばかり。
どんな思いで昭和20年8月15日を迎えたのか、
ちゃんと聞いておけばよかったと思います。
母方の祖父は、
電報電話局というようなところに勤務していたそうで
そういう場所はスパイ行為を疑われて、
よく爆弾が仕掛けられたらしいです。
その爆弾で怪我をする同僚も多かったそうで、
爆発でちぎれた手や足ごと病院へ運んで
なんとかつながったり、
一命を取り止めるということがあったそうです。
昭和20年8月初め、
職場のある町が大規模な空襲にあったことを知った祖父は、
疎開先の祖母の実家から電車を乗り継いで見に行った際、
落ちていた爆弾が爆発したとかで大けがをします。
近くにあったという陸軍病院に運ばれ
一命は取り止めましたが、
両腕の肘から先を失い、
ガラスの破片が刺さり左目の視力も失います。
その時祖父は30代半ば。
小さな二人の娘を抱えていました。
なんというか不幸そうなのだけれど、
実際、痛ましいことだし、
怪我をしたあとの、
まだ若いときは荒れていたこともあったようだけれど、
私たち孫にとっては
「もともと手のないおじいちゃん」であり、
肘先で起用に湯のみ茶碗を持ってお酒も飲むし、
たばこも吸うし、新聞も隅々まで読むし、
テレビで相撲観戦して盛り上がるし、
改造した自転車に乗って牛乳配達とかするし、
牛乳配達の集金も自分で行くし、
なんならその自転車に
小さい私たちを乗せて近所を走ってくれるし、
ボールペンを口に加えて黒電話のダイヤルを回して
電話もかけるし、
カメにエサもやるし‥‥
ただただ「両手がない」というだけの祖父でした。
私が高校生くらいのときだったか、ふと
「おじいちゃん、指先ってどうなってるの?」
と聞いたことがあります。
すると祖父は座卓の上に右腕を置いて、
お手玉のおしりのように
きゅっとしぼられたような肘先を私に向けて、
「いいか? これが親指、人差し指‥‥」と
5本の指を動かしてくれました。
指はないのだけれど、
じゃんけんの「グー」のような位置で
お手玉のお尻のような肘先が5か所動きました。
「うわぁ‥‥
指って指先だけのものじゃないんだ!」
と思ったことを強烈に覚えています。
祖父の葬儀の際、葬儀屋の年配の女性が
祖父のことをよく覚えていて
「いままでよくがんばった。
本当によく頑がんばった。
この足で自転車に乗って、
この腕で稼いで、家族を養ってきたんだもんね。
よくがんばったね」
と話しかけながら
棺に収まった祖父に装束を着せてくれたので、
祖父に対して、どうしようもないような
複雑な気持ちを抱えていた母たちも
みんな泣いてしまいました。
みなさんの話にあるように、
どちらの祖父も
戦争の話を自分からしていたことはなく、
私が聞いた「ない指の話」以外は
まわりの人たちからの情報です。
もっと聞いておけばよかったな、とも思うけれど
それぞれの祖父が
ごく普通に見せてくれた普段の生活や人生が、
私の中に
いろいろな種を残してくれたと思っています。
長くなってしまいましたが、
両祖父の供養になればと思って送ります。
(良夫と慶次)

2025-08-23-SAT

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