
- 父は揚子江手前の上海で終戦を迎えた。
本来はビルマに派兵される予定だったらしい。
終戦後、営舎の横にある溝の向こうには、
中国の部落の子どもたちがいたそうだ。
配給のタバコがいくつかあったので、
溝の向こうの子どもに投げると、
ほどなく向こうから
お米を叩いて平坦にした煎餅のような食べ物が
投げてこられたという。
空腹だった父はそれをむさぼりたべたらしい。
「お腹すかしとったけん食べたったい」
と言っていた。
終戦後であったのに末端にいる生活者には
戦争という意識もわだかまりも
まったくなかったらしい。
その後、
終戦からかなり遅い帰還指示であったようだが
上海から貨車に乗り、
行きは中央に戦車が乗っていたという船の
戦車なしの船底で、焼いたお米を食べながら、
博多港に帰港した。
少し雪がかかっていた脊振りの山が見えたときは
ほっとしたと言う。
父がこのエピソードを話しはじめたのは
90歳をすぎたあたりからだった。
父は鹿児島本線折尾駅のかしわめしが好物だった。
蓋についたお米を含め
一粒も残すことなくその食べ方は見事であった。
ふだんのごはんも大事に食べていた。
戦争体験を含め、お米の一粒のありがたさを
身に染みて感じていたのだろう。
その父も7年前に鬼籍に入った。
お米高騰の時代である。
父が過ごした時代を想起しながら、
1粒のお米も無駄にせず
大事に食べたいと思う今日このごろである。 - (しろみ322)
2025-08-18-MON

