
あけましておめでとうございます。
とつぜんですが今年、ほぼ日は雑草に学びます。
農学博士(雑草生態学)の稲垣栄洋先生の
「ほぼ日の學校」でのお話や著書をきっかけに、
急速に雑草に興味が湧いてきた
糸井重里と、ほぼ日のメンバーたち。
さらにいろいろなお話を聞けたらと、
先日みんなで、先生が普段から研究をすすめる
静岡大学の藤枝フィールドに行ってきました。
そのとき教えてもらった、たのしくて、
元気のもらえる生物のお話の数々を、
新春第1弾の読みものとしてご紹介します。
雑草のように、戦略的にクレバーに、
やさしく、つよく、おもしろく。
さぁ、新年のほぼ日、はじまります。
稲垣栄洋(いながき・ひでひろ)
1968年、静岡県静岡市生まれ。
静岡大学大学院教授。農学博士。
専門は雑草生態学。
自称、みちくさ研究家。
岡山大学大学院農学研究科修了後、
農林水産省、
静岡県農林技術研究所などを経て
現在、静岡大学大学院教授。
『身近な雑草の愉快な生きかた』
『都会の雑草、発見と楽しみ方』
『身近な野菜のなるほど観察録』
『身近な虫たちの華麗な生きかた』
『生き物の死にざま』
『生き物が大人になるまで』
『手を眺めると、生命の不思議が見えてくる』
『敗者の生命史38億年』
など、その著書は50冊以上。
- 糸井
- 2023年のNHK連続テレビ小説の
「らんまん」のモデルにもなった
植物学者の牧野富太郎先生は、
あらゆる草木に注目して、
それぞれの標本になるような絵を
どう描くかを考えた人で。
- 稲垣
- そうですね。
- 糸井
- だから牧野先生は
「定義したい」という気持ちで絵にされていて、
葉っぱは裏側も見えるように描きたいし、
花びらにもその性質があらわれるように
描いているわけです。 - ある種、抽象概念を図にするような描き方で、
それぞれの植物について
「とりあえずの答えはこれだ」
みたいなことを追求されていて。 - ですから背景なんか描いちゃだめだし、
真っ白い紙の上で
「これ以上そのものらしいものはあるか」
を問いかけた、それはそれで本当に
すばらしい研究だったと思うんですけど。
- 稲垣
- すごいですよね。
- 糸井
- ただ、近代のアプローチって、
やっぱりそういうものだったと思うんです。 - つまり、向き合い方として、対象に対して
「つまりなんなの?」を追求するものというか。
そこで「つまりなんなの?」にならないものは、
特例として排除される。 - ぼくらはずっとそういうところで
勉強してきたから、いろんなものに対して
そういう向き合い方をすることに
慣れちゃってるわけです。
- 稲垣
- ああ、なるほど。
- 糸井
- だけど、稲垣先生の研究されている雑草って、
生えてる場所や状況によって、
姿も育ち方も大きく変わるような
「つまりなんなの?」が言いづらい存在で。 - たとえば先ほどフィールドを歩いているときに、
踏まれる覚悟で低く広がって育つ
たんぽぽがありましたけど、
「図鑑にたんぽぽの絵をひとつだけ載せましょう」
というとき、たんぽぽの代表例として
あの絵を描くわけにいかないじゃないですか。
- 稲垣
- はい、はい。
- 糸井
- とはいえ、たんぽぽの背丈は
どのぐらいが正しいかみたいなことも、
実は「当面これにしましょう」みたいに
仮に決められているだけで、
本当は図鑑通りじゃなきゃいけないなんてことは
まったくなくて。
- 稲垣
- そうですね。
- 糸井
- これって、いまの人間が置かれてる立場と
そっくりだと思うんです。 - ぼくらはけっこう長いあいだ、
「すべてを定義して、
枠から考えれば都合がいいよね。
そのほうが整理も記憶もしやすいし。
枠から外れるものは、とりあえず外しておこう」
みたいな発想で過ごしてきたから、
そういう考え方が身につきすぎて、
枠から外れるものは「それは違う」とか
思いがちなんですけど、
本来、この世界ってもっと自由なもので。
- 稲垣
- 自然界ってばらばらであることに
意味があるので、
実際いろんなものがばらばらだし、
当然「これが普通です」とか
「標準です」とかがない世界なんですね。 - だけど人間はそれだと理解できないから、
私たちの社会って
「とりあえずこれを標準としましょう」
「この枠を普通として、図鑑に載せましょう」
とかやるわけですね。
- 糸井
- そうなんですよね。
図鑑に載っているようなことも、
そういう「標準」や「普通」が
本当にあるわけじゃなくて、
人間が便宜上やっているだけで。
- 稲垣
- ただやっぱり、自然界って本当に
「多様で複雑でなんでもあり」
みたいなものだったりするんですけど、
そういうものって基本的に
人間の脳が理解できないところがあるわけです。 - 人間の脳はいろんな情報を
できるだけシンプルに理解しようとするので、
「枠を作ったほうが」
「数字にしたほうが」
「整理して順番に並べたほうが」
とか考えていく。 - なので「枠を作って考えるしかないよね」は
私たちの脳の限界というか、
もうしょうがないかなと思うんです。 - そのあたりのギャップが、
いまの私たちのいろんな悩みに
繋がってる感じはありますよね。
- 糸井
- たとえば企業のなかで誰かが
「なにか社会に役立つことを
私たちとしてもやりたいよね」
と思ったとして、
いまはつい「社会貢献」という
枠があるところから考えはじめることって
多いわけです。 - だから、実行しようと思って動くうちに
「この枠のなかでやってもらえると
ありがたいんで、そのなかで貢献しましょう」
みたいな話になって、
そこにおさまらないものはやれないし、
途中からどこか、その枠に合わせるように
話が転がっていくことなども割とあって。 - 「あれ、もともと自分たちって
なにがやりたかったんだっけ?」
みたいなことも起きやすくて。
- 稲垣
- ああ。そうですよね。
- 糸井
- でも、枠というのがそういうものだからって、
そこで「俺は枠にはまらないぞ」ばかり
気をつけて生きているのも、
実はものすごく枠にはまった生き方というか。
- 稲垣
- そうですね(笑)。
- 雑草の話をすると
「自分は枠にはまりたくない。
だから雑草みたいにはみ出たいんだ」
とか言う人ってよくいるんです。 - だけど、それって結局、枠をものすごく
意識しちゃってると思うんですよね。 - 「枠にはまってる」
「枠からはみ出してます」みたいな思考って、
すごく人間的な考え方だなと思うんです。
- 糸井
- 雑草の場合は、そういった
「なにかのアンチ」ではないじゃないですか。
- 稲垣
- そうなんです。実際の雑草は
「いや、枠の中とか外とか関係なくて、
いま目の前にある環境がこれだから、
ベストな答えはこれだよね」みたいな発想。 - 枠なんてもう何も考えず、
目の前の環境に対して、ただただ真摯に、
ベストな答えを出し続けているだけなんですよ。
- 糸井
- そこがすごくいいなと思うんですよ。
- 稲垣
- まあ、私たちがそういう雑草のような
生き方をできるかというと、
それはまた難しかったりもするんですけど(笑)。
- 糸井
- そしてまた考えておいたほうがよさそうなのが、
枠とかルールって、これはこれで、
たくさんの人が食べていくためには
ものすごく応用ができる考え方で。
- 稲垣
- そうですね、そうですね。
- 糸井
- たとえば、ぼくらが毎年おいしいお米を
たくさん食べられているのも、
そういう枠の発想でいろんなことが進んできたからで。 - そういう枠組みが商売になることを前提に
みんなが力を尽くしてやってきたから、
いまの社会でできていることがたくさんある。 - だから、枠だとかルールだとかを、
「全部なくしたほうがいい」とか
やりはじめると違う。
- 稲垣
- それはもう違いますね。
- 糸井
- 先生の雑草の研究にしても、
おおもとは作物を育てるということを
していたからこそ始まってるし、
そこは一見矛盾なんだけど、
両方あることを覚えとけばいいというか。
- 稲垣
- 私も当然大学では学生たちに成績をつけますし、
並べたほうがわかりやすいから
順位を並べることもあるわけですね。
でもそれも、便利だからやっているだけで。 - そのときにどこかで
「ほんとは普通も標準もないんだけど、
人間の脳が理解するにはこれしかしょうがないから」
みたいなことを
ちゃんと覚えておく必要があるかな
とは思うんですよね。
- 糸井
- で、いま、40代を過ぎた頃に先生が、
セミの生き様を目の当たりにして
「うわ、いいな」と思ったのと同じように、
そういう雑草のようなあり方に、
いま、時代がなにか
「その発想って、あるよな」と
思いかけてる気がするんです。 - ぼく自身、いま、そのあたりの話が
おもしろくてしょうがないんですよ。 - 枠のようなことの大事さも思いながら、
自分の生き方でも雑草のようなことを見ていたいし、
最近、そういうチームがあっても
いいんじゃないかと思って、
会社にも応用できないかと思っているんですよね。 - そのあたりってほんとに難しいんですけど、
そういうことも、雑草を好きになると、
「難しいけどなんかこういうことなんじゃない?」
ってちょっと考えやすくなるなあと。
- 稲垣
- そうですね、雑草を見てると
イメージが湧きますよね。
それぞれ、ほんとにいろんな例がありますから。
フィールドにあった、キウイの木。
雑草コラム03
脳って意外に間違える。
(「ほぼ日の學校」稲垣先生の授業より)
「雑草は脳がないのにどうやって考えてる?」
みたいなことってけっこう訊かれるんですけど、
人間は脳を過信しすぎなんですね。
脳って、単なる器官のひとつでしかないんですよ。
生物のいろんな戦略がある中で、人間は
「じゃあ情報をいちど全部脳に集めて、
そこで情報処理して判断しよう」
という戦略を発達させてきただけなんです。
だから人間の考えだと
「脳がないのにどう生きてるの?」とか思うけど、
人間も脳をたまたま発達させて持ってるだけ。
脳なんかなくても生きていけるんですよね。
そして人間の脳って、複雑な自然界の環境を、
「情報として入れて、できるだけ単純に理解しよう」
と進化してきた器官ですから、
複雑なものがとにかく苦手なんですね。
「なんかいっぱいあります」みたいなのって、
基本的には苦手なんです。
「余計なものは削って、できるだけシンプルに」
が好きで、その上で、比べたり、
順位をつけて整理したりが得意なんです。
たとえば2つ水があって
「どっちがいいですか?」とか言われても、
わからないじゃないですか。
そこを数字で比べると「目盛りで何ml」とか
すごくすっきりする。
どっちが大きい、どっちが小さい、
どっちがいい、どっちが悪い。
順位をつけたりするのは、人間の脳は大好きなんです。
一方で、複雑なままのものを扱うのは苦手。
それはしょうがないんですよね。
複雑なものを単純化するために、
そういう仕組みを発達させてきたんだから。
そして脳って、意外に間違えるじゃないですか。
最たるのが「生きるのがつらい」とか
「死にたい」とか思うわけです。
そんな生物、他にいないですから。
人間の脳って、その程度の器官なんですよね。
もちろん大事な器官だし、
自分という存在の重要な場所ではあるんですけど、
そんなに出来がいいわけじゃない。
「生きづらいなぁ」とか「死にたい」とか、
思っちゃいますし、
脳の血流や神経の流れが悪くなるだけで、
勝手に落ち込んだりふさぎ込んだりもしますし。
だからそういうことが起きたらもう
「ああ、これは脳が完全じゃないせいだな」
と思うといいと思うんです。
落ち込んだりしたときは、もうひとりの自分が
状況をちょっと離れたところから見て、
「脳がまた間違えてるな。比べちゃってるんだな」
とか考えはじめると、
すこし楽になれるんじゃないかと思うんですよね。
(つづきます)
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