1989年に出た
『MOTHER』というゲームと、
1994年に出た
『MOTHER2~ギーグの逆襲~』というゲームが、
2003年6月20日に
ゲームボーイアドバンス用ソフト
『MOTHER1+2』として発売されます。
超大ヒットしたわけでもないのに、
いつまでも熱心に語られるこの不思議なゲームのことを、
制作者の糸井重里という人に、たっぷり聞きました。
(ちょうどそこにいたものですから)
制作中の「あの作品」についても、聞きました!

第3回

「自分がそれだけものを入れてきたから」

糸井さんが生み出すもののなかには、
当然、そのときの思いや時代の空気、
自分の根っこに近いものなんかが
込められていると思うんですけど、
『MOTHER』のように、
一個のパッケージにぎゅうぎゅうと
詰まっているものは特殊ですか?

糸井
特殊ですね。純粋に、書いた分量や考えた分量が
圧倒的に多いですからねぇ・・・。
ゲームって、すぐにできあがるものじゃないから
我慢が要るんですよ。
それは、子育てもそうだし、スポーツのチームとか、
バンドとか、会社やっていくのもそうなんだけど。
もともと、
ぼくのコピーライターという職業というのは、
「みじかいことばの仕事」が多いんですね。
考える時間とかは長かったりするんだけど、
いざ最後の大仕事というのは、
瞬間のひらめきが重要だったんです。
結論にあたる部分だけが空欄になった企画書の、
最後のその空欄を埋めるような仕事ですから。
ゲームはそうじゃないですよね。
ひらめきをもとにしながらも、我慢して、
すべてのレンガを積み上げていかないとできない。
そういうタイプの仕事は、
あとにも先にも『MOTHER』だけです。
小説でもこんなことはなかったです。

たくさんのひらめきとたくさんの我慢が
積み重なっているんですね。

糸井
うん。だから、
「あのゲームを遊んだ人がよろこんでくれている」
ということに対して、ぼくが感じるよろこびは、
ほかの誰も想像できないだろうなぁってほど、
すっごい大きいものなんです。
だから、「ぼく、『MOTHER』やったんです」
って言われただけで、もう、ぼくはうれしい。

くり返し何度もプレイする人も多いですよね。

糸井
それはね、ぼくはわかる気がしてるんです。
なぜ、その人が何度もくり返し遊ぶのかという
理由をぼくはとてもよくわかる気がする。
自分がそれだけものを入れてきたからなんですよ。
当時は、実はな、なんて誰にも言わなかったけど、
自分がそれだけのものを入れてきたということが、
スープのかくし味みたいに
なっていると思うんです。

そのタネ明かしをせがむつもりはありませんが、 なにか、わかりやすいものはありますか。

糸井
たとえば『MOTHER2』では、
ゲイの人が出てきますよね。
あの、イギリスみたいなところにいる、
アツい友情を交わす友だち。
あれはゲイの子どもとして描いてるんです。
ふつうに社会に生きていたら、ゲイの子はいるし、
ぼくも、ともだちにいっぱいいるし、
そういう子がいたほうがいいと思って、
紛れこませてます。
あと、どせいさんっていうのは、
「イノセント」の象徴なんです。
社会の普通の場面では、うまく適応できないけど、
実は人並みはずれた力をじつは持っていたりする。
そういう「無垢の力」みたいなものを、
ぼくは、すっごく好きなんですね。
『情熱のペンギンごはん』のペンギンにも、
そういう役割をさせていたりしたし。
あ、『フォレスト・ガンプ』なんかもそうでしょう。
ああいう「イノセント」な登場人物を、
みんなにも好きになってもらいたいし、
ちゃんと見てほしいと思ったから
ゲームのなかに入れておいたんです。
最初は、「どせいさん」って
呼んでなかったんですけど、
開発中に、そういう名前を獲得しましたね、
あの人たち。

エイプリルフールのときの
ほぼ日に、ちらっと書かれてましたけど、
『MOTHER2』には、
じわじわくる怖さなんかも入れたつもりだ、と。

糸井
ああ。あの、モノクロになった画面で、
自分の家で自分が生まれるところの会話を見る
っていうところがあったでしょ。
あれなんかは、ぼくにとっては
ものすごく思い入れのある場面ですね。
つまり、「なんて名前つけようか?」って、
両親が話してるところを自分で見るわけですよね。
やっぱり、愛されて生まれたっていうことを
入れたかったんですよ。
子どもっていうのは、愛されて生まれてくる。
それを入れたかったんです。
まあ、それは中身の話で、
じわじわくる怖さとはべつのものですけど。

なんというか、
よくわからなくて怖い、というものが
『MOTHER』にはたくさん入ってる気がします。

糸井
たとえばね、ちっちゃいころに、
工事現場に落ちてるエロ雑誌を
見つけちゃうことってあるじゃないですか。
ガキの時分は、「やった!」という気持ちがあって、
興奮したりもするんだけれど、
あれを実は「怖い」と感じる気持ちが
混じるんですよ。
なにか、犯罪とエロが隣り合っているというか
暗いもののなかにエロがちょっとだけ入って
生々しくなるというか。
そういう気分は、ゲームのなかに入ってますよ。
あ、エロを入れてるわけじゃないけどさ(笑)
生理的な「感触」みたいなものを、
けっこういじわるに近いくらいに入れてますよね。
だから、
「なんだか怖くないはずの場面が怖かった」と、
よく言われたりもしました。

不思議なゲームですねえ。

糸井
あの、ゲームって若い人が作ることが多いでしょ。
若い人って、すごく熱心に調べるんですよ。
伝記とか、神話とか、小説とか、資料として。
それはわるいことじゃないんだけど、
少なくとも、調べてわかっていくようなことって、
ぼくはあんまり得意じゃないんです。
それよりは、いろんなことを経験して、そこから、
みんなが味わう「ある感覚」のようなものを
すくい取っていくほうがしっくりくるんです。
それは親子の話もそうだし、
怖さっていうものもそうだし、
無垢っていうものもそうだし。

よくわかります。

糸井
そういうふうにつくることこそが、
「大人になってからゲームの作者になった、オレ」
がつくる意味なんだろうと思う。
無理して大人なつくりかたを
しようとしたわけではまったくなくて、
ぼくはそれで勝負しようと思ったので、
ああいうものをたくさん入れてるんです。
だから、ゲームのなかには
怖いものや、楽しいものや、無垢なものが
たくさん入っていて、
それがスープのかくし味になっているんで、
子供にも、その妙な味が
わかっちゃったんでしょうね。

2003-04-18-FRI