石を彫り、音を奏でる。石川九楊 石を彫り、音を奏でる。石川九楊
書家の石川九楊さんによる
「ほぼ日の學校」の授業が、この夏に配信。
「書ほどやさしいものはない」と
九楊さんはおっしゃるものの、
はてさて、どこから入ったらいいのでしょう。

2010年に糸井重里が石川九楊さんの講演を聴き、
「書」の鑑賞の方法について
なにかを掴めたきっかけとなったお話を
「はじめての書の見方」として教えていただきました。

基本的な話の流れは「ほぼ日の學校」でも
動画で視聴できるようになりますから、
石川九楊さんの声、筆の動きはぜひ動画で!
(3)決断、意志、断念
石川
書はもともと、
石や骨に彫られていたわけですから、
紙に書くものとは違って、
深さというものも関係してきます。
石ならば深く彫られた線もありますが
紙に書く字では、線は深くなりえません。
カッコつけたことを言いたい人が
「書というのは白と黒のコントラストの美学だ」
なんて言いますけれど、あれは黒じゃあない。

黒いポスターカラーで書いた書なんて
見られたものではないですから。
深さのある線を見られたのであれば、
それは石に掘られた跡の、光の届かない影なんです。
だから深みと関係があるんですね。
深ければ真っ黒で力強く、
浅ければ淡く流れるように見える。
書を見るときにはぜひ
一画を彫刻だと思って見てください。
糸井
いいですねえ。
石川
では次は、書の音楽的な展開ですね。
彫刻的に入って、音楽的に展開して、
また次に彫刻的に‥‥。
そこに作者の意識みたいなものを重ねますと、
起筆というのは「決断」です。
何かはじめるというときには、
どうしようどうしようと逡巡しながらも、
いいかと思ってはじめますよね。
起筆には、決断の意識みたいなものが
そこに封じ込められているんです。
糸井
決断。
石川
それから送筆、本体にあたる部分は、
「持続する意志」みたいなものですね。
継続は力なりなんて言った人もいますけど、
持続する力みたいなものが込められています。

それから終筆。
この終筆は、「断念」ですね。
もう終わり、さよならするんです。
画像
石川
そう考えると、書の一画の中には
決断と持続する意志と断念の意識が
そこに投影されていると見られるでしょう?
起筆はノミで石を彫って、
終筆もノミで最終的にすくい取っていきますから、
はじめとと終わりは特にノミの感覚が強いですね。
一方で、送筆では筆で音楽的に展開していく。

つまりまとめると、
起筆、送筆、終筆の3つのポイントで見ること。
その筆は、ただ単にどすんと置くものじゃなくて、
彫刻のノミのように切り込んでいって、
筆が開いて閉じてまた開いていく。
その中には決断と、それを展開し持続していく表現と、
それから断念とが書かれているんです。
その姿がそこに書かれているという風に
見ながらなぞっていけばいいんです。
普通は指でなぞればいいわけですが、
本当にその中に入り込もうと思ったら
ぜひ書の脇に筆を置いてでなぞってみてください。
どういう深さで筆が入って、
どういう速度で展開しているか。
速い場合にはエッジが立ちますし、
ゆっくりの場合はぐぐぐっと跡が出ますから。
そしてもうひとつが、角度ですね。
筆はまっすぐに入る場合もあれば、
垂直に、まっすぐに立てて書く場合もある。
斜めに入っていけば筆は開いていきますし、
ここで力が入って、ここで緩んで、
と当然そこには角度が加わりますから。
画像
石川
だから子どもたちも、
お習字がうまくいかなかったら、
なぞっても平気なんです。
なぞればわかるようなりますから。
ともかく深さと速さと角度に目をつけて
見ていけばいいんです。
糸井
おもしろいです。
わかります、お話を聴いていて
その画が見えてきます。
石川
そうですか。
だから書はやさしいんですよ。
それをね、難しい考え方をして
見られるからわからないだけで。
ぼくらから言わせれば
「書はわからない」なんて言う人は、
とても傲慢な考えなんですよね。

糸井さんと初めて出会ったのが
東京国立博物館で
黄庭堅(こうていけん)の話をした際に、
講演が終わった後に糸井さんが寄ってこられて
「はじめて書がわかった」
というような言い方をされて大変嬉しかったんです。
そのときにも言いましたけれど、
書というのは、一点一画の書き方をたどれば
その人が生き返ってくるわけですよ。
糸井
うんうんうん。
石川
具象的に顔やスタイルまではわかりませんよ。
ですが、筆先が紙に触れて、
そして筆先が動いている力の具合や、速さや深さ、
時間的な展開みたいなものは辿れます。
ここへ、生き返してくるわけです。
新しいことをしたようなことを言っていても、
書かれている手つきが同じようであれば、
たいした変わりはないんだいうこともわかりますね。
1100年ぐらいの黄庭堅も降りてきますから。
(ここから「ほぼ日の學校」の動画では、
石川九楊さんが筆を持って
中国の古典とされる書の一点一画を
なぞりながら詳しく解説をされます。
動画の配信をぜひたのしみにお待ちください)
糸井
こういうお話を
普段なさる機会はあるんですか。
石川
ええ。
大学ではずっと、公開講座でやってます。
糸井
もともと書に興味のある方なら、
今日の話だったら誰でもわかりますね。
石川
まあ、初歩のやさしいお話ですから。
書というのは、
書くことであり、書かれたものである。
まさに、肉の部分ですね。
糸井
一点一画に、肉がある。
その人ならではの力とか速さとか、
思いが出ちゃうわけですよね。
ものすごくおもしろい。
石川
だから書ほどやさしいものはない。
既成の概念を取り払ってもらって、
一点一画をどのように書いていくか、
そこのところに美しさというものがある。
糸井
はあ、今日のお話はすごく入門だけれども
最後のお話みたいにも聞こえますね。
石川
入門ってのはそういうものでしょう。
だって、2歳から200歳までの學校なんですから。
糸井
そうだ!
石川
やっぱり、本当のことというのは単純なんですよ。
難しいことを言っているのは、
要するにまだ本当のものがつかみきれていない。
本当のことをつかんでしまえば、とても単純。
ぼくはいつも書について書くときに、
大人の人が読む学術雑誌みたいなものでも、
小学生に向けて書く文章でも、
ほとんど同じことを書きますから。
今日のこの話をこどもにも
わかるように書くこともできるので。
糸井
愉快です。
多少でも書道をやっていた人にとってみると、
このお話を聞いてからだと輝いちゃうだろうな。
入門にして結論みたいな授業、
本当にありがとうございました。
石川
ありがとうございました。
(おわります)
2022-07-02-SAT
石川九楊さんの授業は、
ほぼ日の學校で7月29日(金)に配信。

肉声での解説、筆の動きなど
とても貴重な授業になりました。
最初の1か月は無料で視聴できますよ。