石を彫り、音を奏でる。石川九楊 石を彫り、音を奏でる。石川九楊
書家の石川九楊さんによる
「ほぼ日の學校」の授業が、この夏に配信。
「書ほどやさしいものはない」と
九楊さんはおっしゃるものの、
はてさて、どこから入ったらいいのでしょう。

2010年に糸井重里が石川九楊さんの講演を聴き、
「書」の鑑賞の方法について
なにかを掴めたきっかけとなったお話を
「はじめての書の見方」として教えていただきました。

基本的な話の流れは「ほぼ日の學校」でも
動画で視聴できるようになりますから、
石川九楊さんの声、筆の動きはぜひ動画で!
(1)書を難しくする三つの誤り
糸井
いやあ、今日は
まったくの素人が聞きますから。
石川
いやいやいや(笑)。
糸井
たのしみですよ、
よろしくお願いします。
石川
書というのをみなさん「よくわからない」とか、
あるいは難しいとか言いますでしょう。
でも、ぼくらから言わせると
非常に傲慢に作品の前を過ぎていかれると。
糸井
(笑)
石川
じつは書というのは、
本当は非常にわかりやすいんです。
けれどもね、今我々が普通になんとなく
「書というのはこういうものだろう」
と思っている、その一般的な通念や常識が
書を見えにくくしているんです。

そういう通念を拭い去ってしまえば
書はわかりやすいのに、
みんな、偏った考えをガチガチに身につけて
色眼鏡を掛けて書を見てしまう。
それを外してもらえば、
書というのは本当に易しい。

なぜかといったらね、
誰もが字を書くわけですから。
ピアノだったらみんなが弾くわけじゃないですけど、
字は誰でも書きますから。
だから、本当は非常に易しい。
整理してみると、
凝り固まった角度から書を見ようとする
3つの誤った見方があるんです。
糸井
うん、うん。
石川
まずは、ひとつ目。
書を見たときに
「この字上手いの? 下手なの?」
と上手いか、下手かを第一に考えてしまう。
これがたとえば音楽や絵画だったら、
上手いのか、下手なのか、
普通に鑑賞したらそうは言いません。
それなのに、
「相田みつをは上手いのか下手なのか?」
「武者小路実篤は上手いのか下手なのか?」
そういう見方をしてしまう。
まずは、その見方をやめていただきましょう。
「下手」だと思われている書にも、
実はいろいろな情報がその中に埋まっているんです。
それが見慣れないものだから
「下手」だと考えたりしてしまう。
「上手い」「下手」から解放されましょう。
芸術家には、もちろん上手い下手もあります。
けれどもそんなものは
第一義的に来ないわけですから。
ともかく、上手いか下手かと考えたらダメ。
下手じゃなくて、そこには
いろんな表現がくっついているんです。
それがどういうふうにくっついているかを
見るようにするんです。
画像
石川
書を難しくする見方の、ふたつめ。
掛け軸や扁額(へんがく)を見たとき、
あるいは展覧会や博物館の作品で
特に仮名の書がかかっていると、
「わ、わがせこが‥‥」とか読むんですね。
そうすると、読めた人が偉いとなってしまう。
要するに書については、
なんと書いてあるかと見ないでください。
それは、判読しているだけです。
たとえば、ぼくが書く字と糸井さんが書く字で、
「風」という字を書いたとしますよね。
ぼくが書いた「風」の字と
糸井さんが書かれた「風」の字は
捉え方が違うわけだから、別物なんです。
両方「風」だというところには何の意味もない。
糸井
うん。
石川
「風」と書かれたその時の書き方の中に、
ぼくが捉えている風というものがあります。
そよ風だとか季節の風を
一番に感じる人がいるかもしれないし、
あるいは風土であるとかね。
いろんな体験や経験を含めて、
色々な意味が重なっているわけです。
そういう重なりの中で
「風」という言葉を使うんです。
書かれた「風」を読めればいいのではなく、
風がどのように書かれたか、
その中に意味は隠されているんです。
「かぜぇ~」「かぜっ!」全部変わりますね。
書くことで、言葉に肉がついて、
本当に意味が変わってくるわけです。
風が吹いてきて困った場合もあれば、
風が吹いてきて良かったという場合もあるでしょう。
いろいろな意味合いがそこに重なってきます。
画像
石川
文字というものに対する考え方で、
みなさん勘違いしておられるんです。
文字というと明朝体の活字が
ひとつの基準のように思われていますが、
それはフェイクです。
活字は文字じゃなくて、文字まがいのもの。
だって、「風」という話し言葉は
上下や強弱も含めたそういう力も含めて
「風」と言っているんです。
だから、話し言葉には肉声以外の言葉ってありません。
糸井
そうですね。
石川
書き言葉でも同じです。
ぼくは肉を伴った「肉文字」と
最近言っているんですけども、
肉文字以外の文字というのは本当はないんです。
要するに、「風」という明朝体は、
風からある一つの概念のようなものだけを
引っ張ってきたものなんですよ。
中心に近くはありますけれども、
そこに含まれている色んな意味合いを
全部脱ぎ捨てた最大公約数みたいなものが
明朝体の活字なんですね。

だからこそ本は、
明朝体の活字で読むと読みやすいわけです。
ところが肉文字で書かれていたら
一冊の本なんてとっても読めやしないですよ。
村上春樹みたいな人気作家の小説であっても
本人が書いた字で最初から最後まで
付き合おうと思ったら、
いろんな肉がついてしまっているわけだから。

そういう意味で、書を鑑賞するときには、
「どのように書かれているか」を見てください。
書というのは、
どのように肉がついて書かれているかが大事。
文字を読むんじゃないんです。
「ああ、風ですね」なんていっても、
それは何の意味もないです、書としては。
要するに、何と書いてあるかで悩まない。
どのように書いているかですから。
全部が読めなくて一字だけとってみても、
一字一字がどのように書かれているかを見てやれば、
それで書の表現の核心部に入ることができます。
読もうとしたって、何も見ていることになりません。
それが書を難しくする、誤った見方のふたつ目です。
画像
石川
最後に3つ目の誤り。
「書というものを絵画のように考えてしまう」。
絵画は線でもって形を描いて、
そこに色づけをしたものですよね。
書の場合は色は使わないで、
白と黒の線でもって文字を書き並べています。
その書き並べ方に美のようなものが出てくるんです。
要するに、美術の延長線上のようなものとして
考えないということですね。

では、書はどういうものとして見たらいいか。
比喩ではなく、書というのは
彫刻と音楽と掛け合わせてできているんです。
糸井
彫刻と音楽?
石川
文学も同じですね、
彫刻と音楽の両方を掛け合わせたもの。
だから最終的に、書は文学だということになります。
彫刻と音楽という両面を含みこんで
持っている表現なんですよ。
美術をモデルに考えないで、
彫刻と音楽を掛け合わせたものとして
文学もあり書もあるんだと、
そういうふうに見ていただくようにすれば
書ほどやさしいものはありません。

書を見ようと思っても、
紙の前に出ればすぐわかるわけではないですから。
ところがね、既成概念を拭い去って
見方さえわかれば、
書のほうからべらべらしゃべってきますから。
やっぱり見方があるんです。
(つづきます)
2022-06-30-THU
石川九楊さんの授業は、
ほぼ日の學校で7月29日(金)に配信。

肉声での解説、筆の動きなど
とても貴重な授業になりました。
最初の1か月は無料で視聴できますよ。