石川九楊の「書」だ。
(5)約束は縦に書く
糸井
石川さんがおっしゃることには全部、
同じものは二つとないっていう、
強靭な気持ちが見えます。
今のものって、商品でも、
「これを買ったらちょっと傷ついてます」とか、
違いが排除されていく傾向がありますよね。
「0」「1」みたいに記号化した活字に、
どんどん慣れていっているから、
コントロールがしにくいということで、
文字が捨てられていくんでしょうかね。
石川
逆にいうとね、活字を扱う人なんかが、
ハネているとか、ハネていないとか気にしますが、
あんなものはどっちでもいい、
両方一緒なんですよ。
異体字も含めて同じ字なんです。
糸井
昔の人は、同じ手紙の中に
違う形で同じ字を
書いていることもありますよね。
石川
そうそう、そうそう。
僕も「書が面白いな」と思ったのは、
先生が「柳」っていう字を、
異体字で書いたんですよね。
「えっ、こんな柳でいいんだ」と驚きました。
小学生時代の自分が
「柳」の異体字に興味を持っていたのに、
そういうものを排除して、
これとこれとは違う、なんて言えませんね。
糸井
異体字は、縦書きならではかもしれませんね。
そう考えると、横で書くっていうのは、
相当無理なことなんでしょうか。
石川
日本語を横に書くというのは、
英語を縦に書くのと同じです。
こういうと人は笑うけれど、
いや、本当なんですよ。
糸井
ぼくも横に書く癖がついていますから、
アルファベットのように
日本語を使ってるのは確かです。
石川
それがもう、ぼくは信じがたいですね。
業務用の文書は数字だとか記号が
たくさん付くから仕方ないけれど、
私信で横に書くのはね、
それはあり得ないでしょう。
糸井
いやあ、なんか、
罪を犯している気分です‥‥(笑)。
石川
そう思ってください、ぜひ(笑)。
だって、縦に書かなかったら、
何をもって、一つの証しを立てますか。
糸井
うーん‥‥。
時々、このあたりがわからなくなります。
石川
要するに、縦に書かずして、
どこで信じることが生じてきますか。
信の成立、信がどこで成立するか。
糸井
すごいとこへ連れて行かれている気がします。
石川
西洋は横に書きますが、
縦に話すんですよね。
つまり、神に向かって話をする。
糸井
ああ、なるほど。そうですね。
石川
神が仲立ちになって、
そこに信が成立するわけですよ。
でも、漢字文明圏の東アジアには
イスラム教やキリスト教がいうような、
神が基本的にはいないんですよ。
そのかわり、信の証しは何かというと、
縦に書くことで天を想定して、
「天地神明に誓って」という思いが、
無意識に働くわけですよ。
糸井
誓いは横に書けないわけですね。
石川
横の誓約書というのは、
本来はないはずです。
皆さんも書いてみられたら、
誓約書を横に書いた時と、
縦に書いた時とで違うと思います。
糸井
人前結婚式がありますけど、
「互いを仮の神としましょう」
ということでしょうかね。
石川
東アジアでは縦に書いて、話す時は横。
口約束なんですよ。
だから、「そんなこと言ったっけ」でも
済ませられるわけですよ。
西洋でそんなことを言ったらびっくりしますよ。
口約束だと言っても「約束じゃないか!」と怒ります。
我々は、縦に書かないと信の証しが立ちません。
口約束では、
誰に対しても、自分が証を立てるものがないから、
この場をごまかせば何とでもなるだろうと、
そのいかさまが通るわけです。
糸井
天が無くなって、
平面上で逃げ回ってる感じですね。
石川
そうそう、そうそう。
糸井
ところで、石川さんが
好きな書家はいるんですか。
石川
それは断然、良寛です。
あそこには、書の精髄がありますね。
糸井
良寛の字は惚れ惚れしますよね。
どうして、あんなの書けちゃうんですかね。
ぼくはよく漫画を見ていて思うのですが、
心を打つものがあれば、
上手い下手を超えた何かがあるわけです。
そこで、簡単に否定する人に対して、
「そういうふうに言うものじゃないよ」
と言っているのが、相田みつをさんです。
石川さんは、どう感じられますか。
石川
あの人はうまいです。
展覧会に入選する人ですよ。
糸井
ああ、やっぱりそうですか。
石川
最近の若い書家に多いような、
勢いだけで書き進めるタイプとは違う実力派。
最近それなのに、わざと下手に見せているんです。
糸井
隠そうとしても、
ばれちゃうんですね。
石川
上手いですよ、そういう面で言えば、上手いほうに入る。
糸井
やっぱりそうですか。
「みつを」は、言葉も下手に見せていますが、
批判する人よりも、
鍛え抜かれていると思っているんです。
石川
上手なことは、事実ですから。
(つづきます)