書くことの尽きない仲間たち 車で気仙沼まで行く。東京~福島~宮城 2018車 - ほぼ日刊イトイ新聞
永田泰大
2018.03.11

ふたつのことば。

人の常識というのは、
誰かとすり合わせることではじめて
一般的な常識として意識されるけれども、
ある人がずっとひとりでいるなら
その人の振る舞いは世界でただひとつの
常識であり続けるのだと思う。

つまり、ある人が常識はずれなことを
ひとりでずっと続けていても、
誰かにそれを指摘されない限り、
それは非常識ではない。

たとえば、ぼくの大学時代の先輩は、
トイレの個室で用を足すときに、
ズボンを完全に脱いでいた。
それだけでも常識からややはずれるが、
彼はなんと脱いだズボンを首にかけていた。
そう、まるで話題になった
相撲の親方の長いマフラーのように、
脱いだズボンを首からだらりとかけて、
便器に座っていたのである。

なんたる非常識とあなたは笑うかもしれないが、
彼がひとりでその行為を抱えたまま一生を終わるなら、
その行為が常識に外れると彼が気づくことはまったくなく、
それどころか彼は信じて疑わないだろう、
世界中の人たちは個室でズボンを首にかけていると。
少々の好奇心を持ち合わせるなら、
女子はスカートをどうしてんだろ?
くらいは思うかもしれないが、
そう思いながらも首にかかっている脱いだズボンには
とうとう一片の疑問も感じるまい。
なぜなら、個室の中の彼はずっとひとりきりで、
彼の常識は世間のそれと
すり合わされることがないからだ。

それをものすごく薄めた話をすると、
ぼくは方向音痴だということになっている。
いや、脱いだズボンを首にかけたりはしない。
そうではなくて、ぼくが方向音痴だという話だ。
永田は方向音痴だ、と仲間内ではいわれていて、
まあ、それは、ぼくも完全には否定しない。
世間一般の常識とすり合わせたとき、
たしかにぼくの振る舞いは非常識の域にある。

目の前の信号が青になるとつい渡ってしまう。
電車の中で考え事をしてドアが開いたときに
あ、降りなきゃと反射的に感じてしまうことがある。
正しい道順を把握しないまま、
一同の先頭をずんずん歩くことがよくある。

ほんとはこのあたりで自分の方向音痴の例を
挙げるのを止めたいところだが、
仲間内から批判されそうなのでもう少し白状すると、
ある日、会社の上司である有名コピーライターとともに、
劇場の楽屋口を探していたところ、
それっぽい灯りがあったので、
「糸井さん、こっちです」と案内したら、
それは入口ではなく窓だったということがある。

同僚と一緒にある場所を目指していたとき、
そこが昔の職場があった地域で
自分としては詳しいつもりだったから、
「ここからは俺が案内するよ」と
みんなを先導して移動しはじめたところ、
「ここからは俺が案内するよ」と
宣言したその場所こそが目指していたゴールで、
「ここからは俺が案内するよ」と言いながら、
ゴールからどんどん遠ざかっていたということもある。

さらに、もっともひどい例は、
地下鉄の改札をめぐる摩訶不思議な体験で、
いや、もういい、サンプルはもう十分だ!

なるほど、たしかに、ぼくは方向音痴かもしれない。
けれども、冒頭の趣旨に戻ってとらえ直すなら、
ぼくは自分ひとりでいるときは、
道に迷っているという感覚はほとんどないのである。

たとえば渡らなくてもいいのに
目の前の信号がパッと青になってそれを渡りかけたとき、
ぼくは道を間違ったという意識はない。
ただ「おっとっと」と思うだけである。
ゴールまでの正しい道順を把握せずに
なんとなくこっちかなと町を歩いているとき、
どうやらこれは違うぞと気づいたときも
ただ「おっとっと」と思うだけなのである。

ところが、他人と一緒に歩いていたりすると、
渡らなくてもいい信号を渡りかけたときは、
「おい、どこへ行く」ととがめられる。
それでぼくは「ああ、ごめん」と謝る。
正しい道順を知らずにずんずん歩いているときも
「おい、どこへ行く」と注意される。
それでぼくは「ああ、ごめん」と謝る。
つまり、ひとりでいるなら「おっとっと」で済んだことが、
誰かと世界をすり合わせることで
「おい」と咎められ、「ごめん」と謝ることになるのだ。

以上のことを昔からしみじみと考えているゆえに、
ぼくは世の中の方向音痴に対してとても優しい。
みんなはあなたやぼくを方向音痴だというが、
それは、いってみれば一方的な言いぶんで、
ぼくらはひとりでいるなら、「おっとっと」で許される、
とても柔和で穏やかな世界に生きているんですよね、と。

それほど方向音痴に対して寛大なぼくではあるが、
しかし、浅生鴨の方向音痴には我慢がならぬ。
あれは非常識などというくくりでは表現が足らん。
方向がどうこういうよりも意味がわからない。
当人が「おっとっと」で済まそうとするなら、
「おっとっとじゃねーよ」と激しく糾弾したい。

昨日の各自のツイートを読んだ方は
彼の非常識をご存じかもしれないが、
事実はあれの何倍もひどい。
多くの人の度肝を抜いた、
「駅で待ち合わせているのに、
駅から勝手に知らない町へ向けて歩き出し、
たまたま車で通りかかったぼくらが
それを発見した事件」においても、
彼の非常識の極みは無事に彼を捕獲した直後にあって、
「たまたま見つけたからよかったけど!」とか、
「一本道が違ってたら完全にすれ違ってましたよ」
などと言うぼくらに対し、浅生鴨はなんと、
「いやあ、縁ですねぇ」と言った。
いや、縁じゃねーよ! なぜ待ち合わせ場所から動く!

しかしそのとき、
「なにしてんの!」「駅にいてって言ったでしょ!」
などと半ギレになりながら、
車を路肩に停めているため、
ものすごくテキパキと車内の荷物を整理して
鴨さんが座るスペースをつくった
古賀さんと泰延さんのことを思い出すと、
いまでも笑いが止まらなくなる。
きっと、明日も車内でその話をすると思う。
二ヶ月後くらいに会ってもするだろうし、
ひょっとしたら10年後だってするかもしれない。
ああ、思い出しただけで、おかしい。
あのときの、道路をぼんやり歩いている浅生鴨と、
それを見つけて車から飛び出して行く
古賀史健と田中泰延の姿を
誰かがyoutubeに上げてたら、
何度も何度もくり返し見るんだけどな。

そういうことの連続だから、旅はたまらない。
まだそれが明日も続くなんて、とてもうれしい。

旅というのは、新しく何かを知ることの連続で、
自分がいろんなことを知らないのだということを
つくづくと思い知らされる。

飯舘村に泊まった。
翌朝、飯舘村について、いろいろうかがった。
飯舘村は「いいたてむら」と読む。
濁点はつかない。

飯舘村は福島をめぐるニュースにしばしば登場する。
ぼくもだいたいの位置は知っているし、
何度か通ったこともあるので、
なんとなく知っているつもりでいた。

知らないのに知っているつもりでいることは、
ぜんぜん知らないことより、
よっぽどたちが悪いをとぼくは思う。
なぜなら、知ってるつもりでいると、
それを学ぼうともしないからだ。

すごく基本的なことだけれど、
自分が何もわかってないと感じたのは、
飯舘村の大きさについて知ったときだった。

飯舘村は、ぼくが考えているよりもずっと大きい。
具体的な面積は230.13平方キロメートルで、
東京23区でもっと大きい大田区の約3.8倍である。
ニュースなどで飯舘村のことを聞くとき、
もう、本当に失礼なのだけど、ぼくはそこに、
昔話に出てくるような「村」をイメージしてしまっていた。
避難が解除されたというときも、
村民の意見が分かれているというときも、
「小さな集落」を勝手に想像していた。

ところが飯舘村というのは、
20の行政区に分かれていて、
それぞれに長がいて、
それぞれの地域を独自に管理している。
もともといくつかの村が合併してできているから、
大きいことも、地域差があるのも自然だ。

そういうことも、実際に来てみて、はじめてわかる。
もちろんそれを学ぶために来たわけではないけれど、
そういう、知ってるつもりで
何にもわかってないことがほんとうにたくさんある。

飯舘村で農業を生業にしている
赤石沢傭(あかいしざわ・すなお)さんの
お宅におじゃまし、いろんなお話をうかがった。
取材というよりもこたつで一緒におしゃべりした、
という感じだった。
奥様に出してもらったイチゴがおいしかった。

震災前、飯舘村には約6000人の人が暮らしていた。
計画的避難区域に指定され、
ほとんどの住民が村外に避難したが、
2017年3月の避難指示解除後、
村に戻って暮らしているのは10分の1ほどだという。

赤石沢さんは3年の避難生活のあと、
飯舘村に戻ってきた。
ニンジンやつまみ菜など、たくさんの作物をつくっていて、
畑を耕し、土をつくり、ビニールハウスを管理し、
失礼ながら80歳とは思えぬ働きぶりだった。

農作物をつくるだけではなく
「梅雨時に花があると気持ちがいいから」といって
道沿いにアジサイを植えたり、
飯舘村の方言やことわざをまとめた本を
自分で編集したりもしていた。
遺族会や同窓会などのさまざまな会長職を
五つも兼任しているそうだ。

いろんなことに精力的に取り組む
赤石沢さんの話はおもしろく、
訛りのある独特の調子でぽんぽん冗談を飛ばすから、
ぼくらは何度も吹き出すことになった。
赤石沢さんを紹介してくださった、
飯舘村の黒田佑次郎さんと佐藤紀子さんが
話をどんどん引き出してくださったのも、
とてもありがたかった。

小一時間ほどのんびり話して、
こころに残ったことばがふたつある。

ひとつは、震災からのこれまでのことを、
ざっとまとめて話していたとき、
この7年の間に翻弄された自分の生活を顧みて、
一瞬だけ独特の強さで赤石沢さんが発した
「(だからオレは)原発は憎む」ということばだ。
それは、なんというか、
複雑な主張などではなく、ただシンプルに、
それまでの自分の暮らしを壊したものとして、
対象をスッと射貫くようなことばだった。
ことばはそのひとつから展開することはなく、
ただそのひと言で終わった。
「原発は憎む」
その短さだからこそ、ことばはぼくの胸に残った。
そう、あの事故はたしかに、
多くの人々の暮らしを壊したのだ。

そしてもうひとつは正反対のことばで、
赤石沢さんが自分のモットーを語っていたときに語られた。

ご自分が取り組んできた、
たくさんの物事を振り返りながら、
赤石沢さんはご自分の好きなことばとして
「なせば成る、だ」と言った。
しかし、ぼくが思わず手帳にメモしたことばは
それに続いて出たもので、
にこりと笑いながら赤石沢さんはこう言った。

「やんなきゃ、ダメだ」

福島の、独特の暖かみのある訛りだった。
「やんなきゃ、ダメだ」
古賀さんも泰延さんも、
飯舘村から出るときの車のなかで、
その口調をマネしながら何度もくり返していた。
「やんなきゃ、ダメだ」

まさにこのおかしな旅も、やったから、できた。
どんなことも、たとえ失敗する可能性があっても、
「やんなきゃ、ダメだ」なのだろうと思う。

そのことばを何度かくり返しながら
車は飯舘村を後にして、
相馬駅へと向かった。
なぜなら、相馬駅には浅生鴨さんが
待っているはずだったからだ。
‥‥と・こ・ろ・が、鴨さんときたら!
あ、そんなに、本気で怒ってるわけじゃないですからね。
明日は、気仙沼に着く予定です。

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