小網代の森5周年記念企画 花さく小網代、花さく三浦! みんなで小網代にハマカンゾウを植えにいこう!

神奈川県三浦半島の先端にある、小網代の森。
一般開放から5周年を迎えた今年、
ほぼ日乗組員と「ほぼ日の学校」受講生、
みんなで小網代の森に集合して、
ハマカンゾウを植えることになりました。
当日はテキスト中継をする予定なのですが、
「そもそも小網代ってなに?」
「ハマカンゾウってどんな花?」
という読者もいらっしゃると思います。
そこで予習復習をかねて、
30年以上保全活動をされてきた岸由二さんに、
小網代の歴史、ハマカンゾウのこと、
いろいろなお話をうかがってきました!

1小網代を守るまでのこと

──小網代の森がオープンして、
今年でちょうど5周年なんですね。
おめでとうございます。

ありがとうございます。
2014年の一般開放から、
ちょうど5年が経ちました。
オープンしてすぐの頃、
ほぼ日のみなさんも来てくださいました。

2014年に小網代を訪れたときの集合写真

──あれから5年が経ったわけですが、
今回は岸さんから
「ハマカンゾウを植えに来ませんか?」
というお誘いをいただき、
今度、乗組員のみんなで
小網代に行くことになりました。
当日は「ほぼ日の学校」の受講生も
手伝いに来てくださるそうです。

それはうれしいですね。
たくさんの人が来てくれると、
たくさんの花が植えられます。

──「なぜ花を植えるのか?」という話は、
あとでじっくりうかがいたいのですが、
まずは「小網代の森」がどういう場所か、
これまでの復習もかねまして、
すこしだけ教えていただけますでしょうか。

わかりました。
まず小網代という場所は、
そもそも都市開発計画の中で
消えゆく自然のひとつでした。

1985年に提出された開発計画では、
農地や住宅地を増やし、道路や鉄道もつくり、
リゾートマンション、ホテル、ゴルフ場もつくる。
あと、小網代湾の干潟をほって、
ヨット基地にするという話もありました。
全部で170ヘクタールくらいの規模です。

当時の企画書より抜粋

──まさに「一大リゾート開発」ですね。

ぼくも最初にその計画を見て、
さすがに仰天はしたんですが、
これは都市基盤整備のチャンスでもあるので、
いまやらないと三浦市に未来はないと思いました。
だからぼくは最初から、
その開発計画に賛成の立場だったんです。
開発計画に反対じゃなかった。

──反対じゃない。
そこが小網代を語る上では、
大事なところですね。

そうです。
道路もつくったほうがいい、
鉄道も延ばしたほうがいい、
住宅地や農地造成もやったほうがいい。
でも、リゾートホテルやゴルフ場は
いらないんじゃないか。
そういうスタンスだったんです。

──計画には賛成だけど、
すべてに賛成ではなかった。

はい。ちょうどその頃、
ぼくは「流域」という単位で都市の防災や、
自然の保全をやるという考えで、
人生を変えようと思っていた時期でした。

──小網代の「流域」については、
2015年のほぼ日のイベントのときに
岸先生にくわしく語っていただきました。

2015年のイベント「活きる場所のつくりかた」より

そのときも話したと思いますが、
当時の開発計画を見てみると、
予定地だった170ヘクタールの中に、
ひとつの流域がそのまま残されていたんです。
それがいまの「小網代の森」と呼ばれる場所です。

だからぼくのアイデアは、
この貴重な流域はそのまま残して、
他の区域は三浦市のために開発したほうがいい、
というものでした。

──もともとの計画では小網代を削り、
ゴルフ場をつくろうとしていたわけですが、
どうやって説得したんですか?

開発計画が出た1985年って、
ちょうど「プラザ合意」があった年なんです。
いわゆる日本のバブル経済の頂点のようなとき。
そのあとから一気に円高になって、
経済もすこし失速しはじめた頃でした。

そういう時代のリゾート案だったので、
計画自体はちょっと浮世離れしてたんです。
そういう豪華絢爛なアイデアじゃなくて、
もっと落ち着いたアイデアにしようよというのを、
文書にして企業や行政に説得してまわりました。

結果的にはだいたいぼくの提案どおりになって、
小網代の森も守ることができたんです。

──折衷案的に「半分の自然」を守ったわけじゃなくて、
はじめから「小網代の森」だけを残す方向で
動いていたんですね。

もちろんそうです。
時々「なんでここだけを守ったんですか?」と
訊かれることがあるんですが、
他のところを残しても何もできないんです。
三浦市にとっても得がない。
ぼくはいろんな苦しい自然運動をやってきて、
そういうことが身に染みてわかっていました。
つまり、保全ができて、
地域振興にもつかえる自然というのは、
最初から立地条件が限られているんです。

──小網代はそういう条件がクリアされていた。

小網代は完璧にまとまった流域でした。
流域というのは、
雨の水を集めて海にそそぐ地形で、
それだけで完結した水循環の単位です。
そんな場所が関東地方にあったことが、
すでに奇跡のような話なんです。
それでゴルフ場計画もなくなったので、
とにかくこの森の保全をやろうと決めました。

そこから行政にはたらきかけて、
2005年には国交省の
「首都圏近郊緑地保全法」という法律で
「近郊緑地保全地域」の指定を受けました。
そして2011年には、
もうひとつ上のレベルの「特別保全地区」になり、
必要な土地を県が買収することで、
小網代の森すべて保全することに成功しました。

──2011年ということは、
当初の開発計画から約25年近く‥‥。
かなり長い道のりでしたね。

ほんとにいろいろありましたね(笑)。
しかもその間に、
ぼくは生態学者として大きな
「見込み違い」をしています。

──見込み違い?

ぼくが1984年の秋に
はじめて小網代の中に入ったとき、
それはもう目の覚めるような
美しい湿原が広がっていました。
60年代から放置されていた田んぼが、
ちょうどいい感じの湿原になりかかっていて、
それはそれは美しい自然になっていた。

──へぇーー。

だからそのときのぼくは
「このまま放っておけば、
極楽みたいな世界になるかもしれない」
と本気で思っていたんです。

──あぁ、なるほど。
何もせずにそのまま放置するだけで‥‥。

そのときのぼくはバカだったから、
そのままで勝手に極楽になると思っていた。
で、途中まではほんとうにそうだったんだけど、
1990年代の後半くらいからは、
突然その様相が変わりはじめたんです。

──変わりはじめた?

美しかった湿原が一気に乾燥して、
どんどん「笹原」になっていったんです。
それは生態学者として、
まったく予想していませんでした。
勝手にじゅくじゅくの湿原になって、
尾瀬のように美しくなると思っていたら、
急にあっちこっちが乾燥しはじめて、
2000年くらいには、
ほとんどすべてが笹原になってしまった。

──うわぁ‥‥。

美しい小網代の生態系を守るには、
どんどん乾燥が進んでいく土地を、
なんとかして湿原に戻さないといけないって、
そのときになってはじめてわかったんです。