2011年11月1日、
「ほぼ日」は気仙沼に事務所を開設しました。
まずは行き来を増やすために、
ひとまず2年、と置いた事務所でした。
それから7年のあいだ、気仙沼のみなさんとともに、
「気仙沼さんま寄席」をはじめとする
さまざまなイベントを開催したり、
プロジェクトを立ち上げたりしてきました。
あの震災のすぐあともいまもずっと、
自分の力で前へ進もうとする方々の姿を見てきました。
そして、これからは立場を変えて、
あれやこれやをまたいっしょにやっていきたいと
思うようになりました。
2019年11月1日、
「気仙沼のほぼ日」の場所はなくなります。
あと1年ありますが、気仙沼、ありがとうございました。
そしてこれからもよろしく。

これからどうなりたいですか。
糸井
震災後、ぼくらがここに来た時期は、
みなさんがとにかく書類を整えるのに
苦労なさっていたことを覚えています。
行政側も、手助けする準備をして実行するまで、
そうとう大変だったんじゃないでしょうか。
和枝
これまで経験したことのない規模の災害で、
行政はどうしたらいいかを走りながら考えていました。
「まだちゃんと整っていないけども、
みんなに早く言いたいから、これはやる。
ここから先はできていません。
でも、もうすぐですから」
ということがもう、いっぱいで、
そのたびに書類が必要なんだけれども、
みんな「書けない、書けない」と嘆いていました。
不自由な生活だったし、
心にいろんな負荷がかかった状態でしたが、
「何を助けてほしいですか?」と問われれば、
書類をなんとかしてください、と言いたい感じでした。
サユミ
書類はほんとうに、
山のようにありましたね。
和枝
そう。書類を出さないと
いろんな助けが受けられない場面だったので、
みんなが必死で目の前の書類を
提出することに集中しました。
その書類の先に助かる道があると思えたんです。
でもそれは、いま思うと、
ちょっとちがったかもしれません。
糸井
その時期に、数々の手続きをするのは
さぞしんどかったことでしょう。
人が亡くなって、家も道もないところで、
「そのお金を自分にくれるべきかどうか」を
ひとつずつ証明するわけだから。
和枝
うちは昔から気仙沼にいるので、
先代のころに建ったもの、その前の前の代のもの、
何枚も罹災証明書を作成して、
それを毎回毎回確認しました。
「どのぐらいのものが流されましたか」と
つねに問われ、書くんですが、
そもそも自分の持ちものが何だったか、
何を参考にしたらいいのかわからないんですよ。
糸井
ぜんぶが流されているから。
和枝
市役所もわけわからない。
だから最初は、
自分の頭のなかにあったものを書いていました。
でも、そのうち固定資産台帳なんかが出てきて、
その後は資料に基づいて書くようになって‥‥。
糸井
恐ろしい毎日だったろうなと思います。
和枝
ここにいらっしゃらない方もいる。
持ち主がどなたなのかわからないものも
たくさんありました。
それを整理するのは大変なことで、
我が家でいえば、震災後6年くらい、
ずっと「手続きをしている」状況でした。
そして次は「現在はどうなりましたか」という
報告の時期がやってきます。
それもまた、膨大な量でした。
糸井
家やお店の移転の話もしなきゃいけないし、
いつも何かのプレッシャーを感じている状態が
続いたんですね。
和枝
当時、私と社長は、
(註:和枝さんの旦那さまが斉吉の社長)
ふたりでいろんな場所に行商に行っていました。
気仙沼に戻ってきて、
部屋に書類がうず高く積まれているのを見て、
正直「ウッ」となりました。
大事そうに見える書類をよりわけて、
リュックにつめて、また行商に出ていく。
書類を埋めるために、なんとかして
頭の暗闇から必要なものを取り出さなきゃいけない。
すごくゴチャゴチャした暮らしがしばらく続きました。

その手続きはすべて、
「〇〇がなくなったので、こうしてください」
というところから話がスタートするんです。
でも、何もなくなったところに立っている私たちは、
「これからどうしたらいいんですか」
と、ほんとうは思っていました。

「これからあなたたちはどうなりたいんですか」
ということよりも、
「〇〇をなくされたんですね?」
と訊かれることからはじまる。
そうするしかないとわかってるし、
もちろん必要だったけど、
同時に「次はどうなりたいか」ということに
頭を使うことが重要だったんじゃないかと思います。
糸井
うーん‥‥でもそれはやっぱり、
そうとうきついことですね。
和枝
きついかもしれないけれども、
「流されました、なくなりました」という
時間の割りあてが多すぎたと、振り返れば思います。
自分たちがどうなりたいのかを同時に考えないと、
道がちがってきてしまいます。
糸井
あんな災害があったわけだし、
いざ自分が「どうなりたいか」を思えたかどうか、
わかりません。
でも、「元に戻すこと」を目標にしたら、
ほんとうは進めないんですよね。
補償してもらうためにいろんなことを
整えていかなきゃいけないんだけど、
斉吉さんでいえば
「金のさんまのタレが残っていた」ことのほうが
ほんとうに前に進めるんです。
和枝
両方が必要で、やっぱり両立てなんですよ。
経済が動かないと
自分たちのやりたいことはできないし、
ちょっとした情報を聞き遅れただけで
「あの手続きができなかった」ということも
たくさんありました。
だから、どっちも必要なんです。

でも、どちらかというと
頭のなかの10のうち7割ぐらいは
「どうなりたいか」を考えなくてはいけない
という気が私はします。
私たちにとって「どうなりたいか」を考える
いちばんのきっかけは、
ミュージックセキュリティーズのファンドでした。
当時、宮城県庁に勤めていた山田康人さんが
持ってきてくださったお話です。
あのおかげで私たちは強制的に
事業計画を立てなきゃなりませんでした。
糸井
そうかそうか。
セキュリティーズが
震災のファンドをスタートしたのは、
4月の頭ぐらいですか?
和枝
2011年、4月の最初です。早かったですよ。
糸井
すばらしいですよね。
あのミュージックセキュリティーズがなかったら
ぼくらはこっちへ導かれなかった。
(註:斉吉さんのファンドの歩みは
ミュージックセキュリティーズの
こちらの動画をごらんください)
和枝
あのおかげで私たちは
「10年後にどうなりたいのか」を
すごく考えました。
社長と道を歩きながら、毎日毎日考えていました。
糸井
きっと道路なんてありゃしない時期ですよね。
和枝
はい。交通機関も何もないので、
どこに行くのにもふたりで並んで歩きました。
飲み水や食べもの、
住むところにも布団にも困ってるという時期に、
そんな話をしていました。
糸井
いま腹が減っているというのに。
ご主人との信頼関係や絆は
そのときさらに深まったんじゃないでしょうか。
和枝
それはもう、ほんとにそうですね(笑)。
糸井
「この人はこういうときに逃げない人だ」って。
和枝
あ、それです。
ほんと、それですよ。
糸井
災害のような状況では、しかたがなく、
人の嫌なところが出るものでしょう。
けれども、昨日の会で見渡したら、
それが出なかった人たちが集まっていました。
みなさん、すごい方たちです。
そう思うと、なんだか泣けてきてしまって。
サユミ
ほんとに、そうだと思います。
糸井
そうだね。
サユミちゃんの結婚だって、
そういうことだったろうし。
和枝
ほんとにね。
でもね、私は母に
若いときからそう言われて育ったんです。
たいへんなときに自分が逃げるような人と
一緒になっちゃダメだって。
糸井
ぼくもそんなことはふだんから口では言ってるし、
よく言われることでもあります。
でも、昨日あそこにいた人たちは実際に、
逃げずに全部やってきた。
困ってる、死んじゃった人がいる、
そのときに同時に、やっぱり先のこと考える。
そんなことはなかなかできないです。

(明日につづきます)

2018-11-03-SAT

「ごはん会」のことば

磯屋水産
安藤竜司さんあいさつ。

磯屋水産の安藤です。
糸井さんとはじめて会ったのは、
気仙沼の町歩きのイベントでした。
お客さんに向けて一所懸命説明していたら、
目の前に、あれっ、糸井さんがいる? 
という感じではじまりまして、
そこからほんとうに
いろんなことを教えてもらいました。
立川志の輔師匠の落語だってそうです。
私、お笑いが好きなんですが、
私たちが見ようと思っても、志の輔師匠の落語は
なかなかハードルが高くて見られませんでした。
けれども、はじめて志の輔師匠の噺を
聴いたときの感動! 

志の輔師匠が
「お父さん、勉強って、なぜするの?」と
子どもさんに訊かれて、
「人より多く笑うためだよ」と答えた──ああ、
こんなすばらしい言葉を出す人がいるんだ!
と驚きました。

そんなふうにいろんなことをぼくらにくれた
「気仙沼のほぼ日」が、
来年なくなるって聞きました。
ちょっと一回はブルーになりますよね? 
でも、まだまだ続くよ、どこまでも。
それを心に秘め、
またなかよくさせていただきたいなと思っております。
今日はほんとうに悲しいですけど、
ありがとうございます。

2019年11月1日に、
株式会社ほぼ日の気仙沼の事務所である
「気仙沼のほぼ日」はお開きとなります。
お世話になったみなさま、
あと1年ありますが、
まことにありがとうございました。

事務所の場所はなくなりますが、
これからも気仙沼と東京を互いに行き来し、
仕事を続け、交流を深めていきたいと思います。

これまで「ほぼ日」の記事を通じて
気仙沼の人々を知ったり町を訪れてくださったみなさま、
「気仙沼さんま寄席」や「マジカル気仙沼ツアー」など
さまざまなイベントにご参加くださったみなさま、
ありがとうございました。
「気仙沼ニッティング」も「東北ツリーハウス観光協会」も
もちろん活動は続きますし、
「うまけりゃうれるべ市。」で出会った
おいしいものを扱うお店や
「東北の仕事論。」でコンテンツに
ご登場いただいた方々とのおつきあいも、
これからも続きます。

お開きまであと1年ありますが、
もしできれば、そのあいだに
「マジカルツアー」を組みたいと考えています。
どうぞこれからも「ほぼ日」と気仙沼の取り組みに
ご参加いただけるとありがたいです。

2018年11月1日
ほぼ日刊イトイ新聞 一同