もくじ
第1回「はがす」 2019-02-26-Tue
第2回「おしだす」 2019-02-26-Tue
第3回「ぬく」 2019-02-26-Tue
第4回「とりのぞく」 2019-02-26-Tue

編集者1年生。駆け出しだからこそ、ぶつかっても、転んでも、駆け抜けたい。

私のすきなもの</br>爽快感

私のすきなもの
爽快感

担当・柴田真帆

第3回 「ぬく」

あれは大学生の頃。
地元の友人ら7人、車に乗り合わせて旅行に出かけた。
初日、2日目辺りはテンションも高く、会話は途切れず、
時折ゲームなどで盛り上がっていた。

3日目にもなると、だいぶ車内の空気は落ち着く。
スマホをいじる者、うつらうつらする者、
隣同士で聞こえるトーンで会話をする者。

私の左隣に座っていたO君は、うたた寝をしていた。
車の揺れに合わせて上下する頭。
いや、頭ではなく、その顎に私の視線は吸い寄せられた。
旅の初日からヒゲ剃りをしていない、その顎には、
3mm程度のヒゲが生えている。
輪郭に沿って並ぶヒゲ……。
このヒゲ……。1本抜いてみたい。
私の眉毛や産毛とは比べ物にならないほどの
太く、黒々と艷やかなヒゲ。

よく見ると、表皮のすぐ下に、これから伸びてくるであろう
ヒゲがスタンバイしている様が透けてみえているのも
これまた興味深い。

これを引っ張ったら、あわよくば抜いたら、
どんな触感なのだろう。
指先に伝わる抵抗はどれくらいだろう。
引っ張っている間中、抵抗はあるのか。
最初だけ強めの抵抗があるのか。
皮下にいるスタンバイヒゲの
根っこはどんな姿かたちなのだろう。
抜ける瞬間に効果音を付けるとしたら、
なにがぴったりだろう。
スポン? ニョロリ? それとも、ブチッ?

車内のBGM、友人らの雑談、車窓の景色。
全ては遠のき、
もう私にはO君の顎とヒゲしか目に入らなかった。

その瞬間、赤信号で停車した揺れで目覚めたO君。
寝ぼけなまこのO君に、唐突ながら、
「ねぇ、ヒゲって引っ張ると痛い? 抜くと痛いの?」
と問いかける。
O君は
「……? あぁヒゲ? 俺はそんなに痛くない派かな。
たまに無意識に抜いちゃってることもあるし」と
答えてくれた。

それは、「待っていました!」の回答だった。
もしも「痛いんだよね」などと言われたら、
引き下がるしかないと思っていたが、
“そんなに痛くない”と。

おもむろに
「あのさ、ヒゲをね、ちょっと抜いてみたいんだけど」と、
私はO君に切り出した。
その問いかけにO君は一気に眠気が飛んだようで、
「え? 俺の? ヒゲを今? ここで?」
と戸惑いの表情を浮かべた。

「痛かったらすぐやめるから。ちょっと試しにお願い」。
食い下がると、O君はこう言った。
「よくわかんないけど、どうぞ」。

「ありがとう!」
もう私は嬉しくてたまらない。
改めてしげしげと顎を眺める。

よくよく観察すると、ヒゲは1本1本、
それぞれ生える向きが異なっている。
最も噛み合わせならぬ、摘まみ合わせがよいであろう、
親指と中指の爪先で、1本のヒゲを摘まむ。
爪先で摘んだヒゲは見た目よりも固く、
毛と言えど棒状に感じられるものだった。

そして、引っ張るとぐーっと感じる抵抗。
それが、ほんの僅か続いたのち、
ズルっとも、スルンとも形容しがたい感触で、
ヒゲが抜けた。

何本かやってみると、
やみくもに引っ張るのではなく、
ヒゲの尖端が向いている方向に沿って力を入れると、
こんなにも太い毛なのに? と驚くほどに、
すーっとほとんど抵抗を感じずに抜けることがわかった。
……気持ち良い。
この立派なヒゲの外観から想像できない感触の
“抜き心地”は、新たな爽快感との出会いだった。

目を瞑っているO君に
「ねぇ、痛くないの?」と声をかけると、
「おぉ。なんか変な感じだけど、悪くないかも。笑」。

痛くないし、悪くないって本人が言ったなら、
もうストップをかけるまでは、やらせてくれるはず。
そう都合よく解釈した私は、
右手で次々にヒゲを抜き、
そのヒゲを左手の甲に整列させていった。

皮膚の上に姿を見せているヒゲが3mmだとしたら、
平均的に皮下には2mm程度のスタンバイヒゲがいた。

ヒゲの毛根は黒く丸みを帯びており、
なんだかオタマジャクシの頭のようでもあった。
オタマジャクシ的部分は爪先で触れると、
しっかりとした棒状のヒゲの感触とは裏腹に
ペタンと潰れるような不思議な感触。
その潰れる毛根は絶妙に粘着質を持っていた。

毛根の粘着質のおかげで、
手の甲のヒゲは落ちたり、飛んだりすることなく、
ずらりと並ばせることができた。
まるでO君のヒゲが甲に移植されたようなその様は、
実に爽快な光景だった。
爪先で感じる爽快感と、目で感じる爽快感が
ここには揃っていた。

目的地に着く頃には、O君の右顎は
すっかり無精髭がなくなり、つるんとしていた。
いつの間にか、まどろんでいたO君は目覚めて
顎をひと撫ですると
「なんかすっきりしてる?」と一言。

そして私の左の手の甲に並んだ、
もとは自分の右顎にあったはずのヒゲを見て
困ったように笑ってくれた。

次に車が走り出したとき、
私の右隣にはO君が座っていた。
そう、アシンメトリーになったヒゲを
次の目的地までに、左右対象に整えるために。

<注意>
医療脱毛や脱毛エステではなく
個人でヒゲを抜くことは、肌への負担が懸念されており、
決して推奨されるものではありません。
あくまで、私とOの君の合意のもとで行われた、
一時的なものとして、ご承知おきください。

第4回 「とりのぞく」