一番古い爽快感の記憶は日焼けした父の肩から生まれた。
その爽快感のもととなる行為は、はがす(剥がす)こと。
当時飼っていたザリガニが脱皮に興奮したのと同じように、
父の日焼けの脱皮には興味深々となった幼稚園児の私と姉。
皮膚がこんなふうに剥がせるなんて!
2人でどちらが大きな一片に剥がせるか、
嬉々として父の肩にかじりついていた。
それはまるでサルの親子の毛づくろいの様だったに違いない。
どれだけ大きく一片を剥けるかは、
幾つかのポイントがあった。
まず、剥き始めの端をどこにするか。
少しずつ剥がれた皮のどこを摘んで広げていくのか。
まだくっついているところを、どのくらいの力で引っ張るか。
幼心に真剣に考えて、透き通るほどに薄い皮を
一片剥がす度に、得も入れぬ、
清々しくすっきりとした気持ちと、達成感を抱いていた。
その皮を破かぬように大切に広げて置いても、
時間が立つと端からチリチリと縮んでしまうその儚い姿。
それすらも幼い姉妹の好奇心を刺激していたのだった。
達成感と共に抱いた、そのすっきりした気持ち。
まさにそれは“爽快感”。
爽快感、という言葉の意味も存在自体も、
わからない年頃ではあったが、
私にとっての爽快感の原体験は、
父の日に焼けた肩から
生まれていたのかもしれない。