久しぶりに太陽が顔を出した平日の朝。
朝ごはんを食べ終えて、
パジャマから洋服に着がえた息子は
小さなジャングルジムの上から
週末の天気予報を伝えるテレビをながめている。
「また、台風が来るみたいだね。そろそろ行こうか」と
声をかけると、するするとすべり台を降りてきた。

玄関では猫のマメくんが見送ってくれて
「いってきます」と声をかけてドアを閉める。
マンションのエレベーターのボタンを押すのは
手が届くようになった息子の役割だ。
でも、今日はいつもの元気がない。
しょげているわけではないのだけど、
不安や緊張感がないまぜになっているのか言葉数も少ない。
実は、前日までの3日間、高熱を出して保育園を休んでいた。
普段は持ち歩いていないデジタルカメラを手にしている
ぼくの姿にも、いつもとようすが違うことを
敏感に感じとっているのかもしれない。

- 父
-
今日は天気がよくてきもちいいねー。
ずっとくもってたもんね。
- 息子
- うん。
- 父
- あしたは運動会があるから、あしたも晴れるといいね。
- 息子
- うん。
- 父
- たくさん練習したこと、見せてほしいな。
- 息子
- だっこ。
- 父
- 久しぶりだから歩いてみない?
- 息子
- だっこ。だっこだっこだっこ。

- 父
-
うん、いいよ。
じゃあ、そこのベーグル屋さんまで抱っこするから
そこから歩いてみたらどうかな。
12kgちょっとのみっちりとした体を抱き上げて
横断歩道をわたってすぐのところにある
ベーグル屋さんのおばさんに窓越しに挨拶する。
後ろから自転車が来ていないことを確認して
そっと下ろすと、少し安堵したのか
ゆっくりと一歩踏み出していく。
ベーグル屋さんから少し歩くと、息子の好きな公園がある。
この公園のなかを通って、毎日保育園に向かう。
春には桜の花びらが舞い散るなかではしゃぎ、
夏には素手でむんずと蝉をつかまえ、
ときにはたも網をもって蝶々を追いかける公園。
息子は公園の池を囲うようにカーブする道を
とぼとぼ歩きながら、
ぽつりぽつりと小さな声で歌いだした。
はらぺこあおむしのうたからはじまり、
七つの子、ブンバボーン、トトロの「さんぽ」まで
お気に入りのうたをフルコースで。
大きくなる歌声に合わせて、足どりも力強いものになる。
うたを歌うことが大好きな息子は
歌詞が違ってたっておかまいなし。
道すがらチューリップを見つければ
「さいた、さいた、チューリップのあなが~」、
雨が降って傘をさしていれば
「ちぴちぴ じゃぶじゃぶ らんらんらん」と
逡巡の迷いもなく口ずさみ、
それを訂正すると「ちがうよー!」と
顔をしわくちゃにして怒られる。
正しいか間違っているかではなくて、
音とリズムそのものを楽しんでいるみたいだ。
ふと気づくと、歌声が止まっていた。
振り返ると、道端にしゃがみこんで
なにかをじっと見つめている。
アリの行列だった。
よく見ると、5メートル以上の長い連なりで
民族大移動のようにせっせと食べ物を運んでいる。
「すごいねー」と感嘆するぼくの横で、
息子は行列からはぐれた1匹のアリを
わざと足で踏みつぶしていた。
咄嗟に鋭く大きな声を放ってしまった。
- 父
- だめだよ! かわいそうじゃないか!
- 息子
- ぼくわるくない。
- 父
-
アリさんの気持ち考えてみなよ。
イタイイタイ言ってるよ。
ひびたもそうされたらいやでしょ。
- 息子
- ひびくんはわるくない。
- 父
- ごめんなさいして!
- 息子
- いや。いやーー!!
- 父
- もうこんなことしちゃダメだ!
表情をかたくし、頑として聞かない
息子の腕を引っ張り、その場から離れさせた。
命の尊さとか、虫にも家族がいることとか
通り一遍のことは言ったけれど、
いま思うと、どんな気持ちからそういう行動になったのか
ちゃんと聞いてあげられればよかった。
共感と理解。そのうえでぼくが思うことを伝える。
自分と子どもの本当の気持ちを対等に扱うこと。
しばらくふてくされていた息子は
車のわきに猫を見つけた瞬間、
さっきのことがなかったかのように
喜びいさんで駆け出していく。

もうすぐ目的地というところで、
保育園に通う友だちに出会い、
「ねこいたよー! あっちー!」と自慢げに伝え、
踵を返して来た道を戻っていく。
ぼくはもう止めない。
ようやく保育園にたどり着くと、緊張がよみがえったのか、
ぼくの足に隠れ、「おうちかえりたい」とささやくように言う。
4日ぶりに会う友だちが
「ひびくんがきた! あーそーぼー」と駆け寄ってくれても
朝の用意をするぼくの後ろを離れない。
そんなときでも、ふたりで恒例の儀式をやれば大丈夫。
両腕でぎゅっと抱き合って、ハイタッチをパチンと1回。
にかっと笑って、白い歯がこぼれる。
「今日も一日楽しんでね」と声をかけるやいなや、
彼は先生の胸に飛びこんでいった。
こちらを振り返ることはもうない。
(つづきます)