ドブネズミみたいに美しくなりたいー等身大で生きるにはー
担当・柴萌子
第3回 ばかばかしいことをしながら生きていたい。

- 糸井
-
田中さんは、コピーライターとして、
なにかを書くときのくせや形式というものがあって。
でも、これから、
自分の名前を出していく立場になると、
自分自身が変わっていくと思うんです。
- 田中
-
はい。おっしゃるとおりです。
ぼくは、今、
会社でコピーライターをやっているかたわらで
なにかを書いている人ではなくなりつつあるので、
「どうしたらいいのか?」と、
「青年失業家」としての岐路に立っているんですよね。
- 糸井
-
田中さんはどうなるんでしょうね‥‥。
自分の名前を出していく立場になると、
2つの方向性があるんです。
まずは、書いていくことで食べていけるようにする、
いわゆるプロの発想。
それから、書いていくことが食べていくことと関係なく
自由である方向。
その2つに分かれますよね。
- 田中
-
そうですよね。
- 糸井
-
その2つのどちらに転んでもいいんですよね。
だけど、ぼくは、
書くことで食べていけるようにしようと思ったときに、
自分の立場がつまらなくなってくるような気がして。
いつまでもアマチュアでいたいから、
「おまえ、それはずるいよ」という場所にいないと、
良い読み手の書き手にはなれないと思ったんです。
でも、それでぼくがちょっと大変だったことは、
書き手という立場に対して、人から
ある種のカリスマ性を求められることだったんです。
トランプ大統領よりもボブ・ディランが偉い、みたいな。
だけど、ぼくはカリスマ性のことはどうでもよくて。
超アマチュアで一生が終われば、もう満足なんです。
- 田中
-
そうですよね。
ものを書くようになってたった2年ですが、
書くことの落とし穴をすでに感じています。
それは、ぼくが考えていることを
毎日書いていくうちに、
だんだん独善的になっていくということなんです。
- 糸井
-
それは、世界像を安定させたくなるんだと思うんです。
でも、世界像を安定させると、
手を動かしているときの全能感が、
起きていてご飯を食べているときまで
追いかけてくると思うんです。
それで、その世界像を
人に押し付けられるようになってしまうような
偉い人になってしまうのは、
たくさんの拍手をしてもらえるけれども、
おそろしいことだなぁ、って。
- 田中
-
書く行為自体が、はみ出したり、怒っていたり、
ひがんでいたりするということを
忘れていると危ないですよね。
ぼくは読み手なので、
世の中をひがむとか、言いたいことがはみ出すとか、
なにか政治的主張があるわけではないんです。
でも、映画評を書くと
「じゃあ、田中さん、そろそろ小説書きましょうよ」
とよく言われます。
もっと読みたいという気持ちもわかりますし、
商売になると思っている人がいることもわかります。
でも、ぼくは、「これいいですね」とか、
「これは木ですか?」とか、「木というものはですね」
というところから話をしたいだけなんですよね。
- 糸井
-
ややこしいですよねぇ。
拍手をしているほうは、
読み手として拍手している自分に対して、
拍手に力をこめているのかもしれません。
絵描きにも拍手をしますし、
映画を作る人にも拍手をしますが、
表現者に対する拍手が少し大きすぎると思うんです。
しょうもないものへの拍手もあるはずなのに、
人に伝わるのは、
やっぱり表現者に対する拍手なんですよね。
そこはしょうがないのかなぁ‥‥。
- 田中
-
だから、バランスを取って、
ぼくのような戯言を言っている人間に
夜中に絡むんですね(笑)。
- 糸井
-
だいたい「www」で返されますけどね(笑)。
ぼくは、「寝る前にちょっと」を探す人なんです。
それで、その「寝る前にちょっと」の人たちと
一緒に遊びたくて。
- 田中
-
深夜になると、若干活発になってこられますよね。
- 糸井
-
そうなんです(笑)。
「おまえ、そんなことやっていると、笑われるよ」
というものを持ち続けられるかどうかが
大切だと思うんです。
だから、ぼくとしてはもっと下品でありたくて。
- 田中
-
永遠にばかばかしいことをやるのは、
これも一種の体力ですよね。
- 糸井
-
そうですね。体力ですね。
