就活中も時々、東京駅に行った。
自分と向き合い考えるスピードや量に追いつけなくなると、
こっそり、行った。
あてなく駅の中をうろうろしたり、
外に出て駅舎を眺めたりしていると、
自分の真ん中に残したい軸はどんなことなのか、
少し風通し良く考えられるようになる気がした。

昨年の1月中旬、
しばらく前から入院していた母方の祖父が、
91歳で亡くなった。
ただただ悲しい気持ちで、急いで山形へ向かった。
背が高く、穏やかで話し好きだった祖父。
小学校の校長先生で、
定年後は、趣味で畑作業をしながら、
地域の歴史本の編纂に関わっていた。
そのため、お通夜やお葬式には、
昔の生徒や教員の後輩、本づくりの仲間など、
様々な年代の方が来てくださっていた。
「おじいちゃん」として祖父を好きだったが、
それだけではない、ひとりの大人としての人生も
垣間見られたように思う。
あちこちから思い出話が聞こえてくる葬儀場にいると、
心のなかに、
まだ悲しさから抜け出せない空間はあるのだが、
そこからあまり遠くない所で、
温かい気持ちもじんわり湧いてきた。
畑の土のような
心のふかふかしたところに涙がしみ込み、
新しい芽が顔を出し始めたような感覚だった。
山形に帰って2日後の夕方、
祖父のお葬式は無事に終わった。

訃報を受け悲しく、気は急って出発した東京駅に、
お通夜、お葬式への参列をとおして
知った感情や経験を抱えて、戻ってきた。
東京駅は、やはり変わらずにいてくれた。
いつもの終着駅に戻ってきて
「ただいま」と少し、安心した気持ちになった。
残ったままの悲しみと、
もうひとつ抱えてきた温かな気持ち。
ふたつが同居している、今のままでいいと
言ってもらえているような気がした。

毎日仕事をしたり、日常生活を送るなかで、
ある範囲の感情は無意識に、できるだけ
動かしにくくしているように思う。
辛いとか、苦しいとか、寂しいという気持ち。
特にこれらに頻繁に気持ちを揺すぶられていると、
それでも仕事を捌いたり、
家事をしなくてはならない日常に影響が出てくるからだ。
だけど、わたしの気持ちを
一番正直に確かめられるのも、きっとわたしだ。
いき交う感情やできごとに渦巻かれるようにして
現在地がわからなくなりそうな時、
自分の中身を整えて、
「今」の自分を紡いでいく手助けをしてくれるこの場所へ、
東京駅へ、
この先も何度でも来たいと思う。
(おわります)