「東日本大震災を実感していない自分は、震災とどう向き合えばいいんだろう?」
ほぼ日でインターンをしている
大学3年生のマツザキが、
あらためて震災について考えた。
メール紹介④

震災のことを考えるなかで、
疑問を感じている方からのメール

こんにちは、マツザキです。
引き続き、「東日本大震災を実感していない自分」
というテーマに寄せられたメールを紹介します。
紹介するメールは、平成28年熊本地震が起きる前に
お送りいただいたものです。

今回は、東日本大震災のことを考えるなかで、
疑問を感じている方のメールを3通、選びました。

メールを送ってくださった3人は、
震災のことを考えるなかで、
自分の考え方や他の人との違いに、
疑問を感じるようになったようです。

それでは、メールをどうぞ。

”誰”と比べて震災のことをわかっていないのか。
(百合恵さん)

私は震災当時、東京の品川駅近くに住んでおり、
大きな地震の後に、仕事帰りの人が
家の前を行列で歩いているのを見て、
ギョッとしたことを覚えています。
自分が住んでいる場所も被災したんだ、と
そのとき初めてわかりました。

とはいえ、津波の被害にあった地域の人や
放射能被害を受けた福島の人に比べれば、
私など恵まれてる方です。

だから私は、東日本大震災を
わかった気になっていけないと思いますし、
本当にわかっていないと思うことがあります。
ただ、そう思うことで苦しくなることもあって、
震災当時に演劇の美術の仕事をしていたときは、
「自分がやっていることは
生きるのに必要ないことだ」という考えと、
「今劇場に足を運んでくれる人に、
真摯に応えるべきだ」という考えが、
行ったり来たりしたことを覚えています。
演劇を通して、自分が笑ったり人を笑わせたりするのは、
控えるべきなのかなとも感じました。

そのような震災当時の記憶を思い出しながら、
マツザキさんの文章を読みました。
読んだあとに、
「"誰"と比べて震災のことを
わかってない、と思っていて、
"誰"に対して笑うことを
控えるべき、と感じていたのか?」
という疑問が自分の中で浮かびました。
誰なのかわからないから、
苦しいのかもしれません。

災害に対して行動している人と、
私の違いはなんだろう。
(tさん)

震災当時、私は実家の広島でテレビを見ていました。
何かしたくて献血と募金に行きましたが、
ほかに何をしたらいいのかわかりませんでした。

やっぱり、自分にとって震災は
「他人事」なのかもしれないと思いました。
広島でも、震災に対して
活動をしている人がたくさんいました。
けれど、自分はなかなか「自分事」に捉えられなくて、
「自分事」にできる人が羨ましいとさえ思いました。

私が震災を自分事にできないのは、
広島から東北が、距離的にも心理的にも
とても遠いからだと、どこか言い訳をしていました。
だけど、広島で土砂災害が起こったときも、
私は何もできませんでした。
災害に遭ったという話を
身近な方から聞いたりしたのに、
どこか遠い話のように思えてしまいます。

災害を自分事にできるかどうかに
災害との物理的な距離が関係ないのなら、
私と行動している人との違いは
なんだろう、と考えています。

東日本大震災とはなんだったのだろう。
(よもさん)

私も、東日本大震災を実感していないひとりです。

私は栃木県で生まれ育ちましたが、
京都で生活を送っていた25歳のときに、
東日本大震災が起こりました。

幸いにも、栃木にいる家族の誰にも
怪我や被害などはありませんでした。
津波の被害があった
宮城県松島町に住む親戚も、みな無事でした。

そのためか、私は東日本大震災を、
テレビの中で起こっていること以外の
なにものでもないように感じていました。

震災を実感していないことには
ずいぶん前から気がついていましたが、
その気持ちを誰かに打ち明けて
冷たい人間だと思われるのは嫌だなという気持ちや、
震災に対して取り組んでいいかわからないという
気持ちを抱えたまま、5年が経ってしまいました。

この時期になると、
被災地のドキュメンタリーが放送されたり、
復興支援、被災地支援ということばを
街で見かけるようになります。
私はそういうことばからも、
目を背けたくなってしまいます。
震災についてまだ「わからない」という気持ちから、
目を背けたくなってしまうのだと思います。

私はひょんなことから、
海外を放浪していた夫と出会い結婚しました。
彼は震災をきっかけに、サラリーマンを辞め、
あてもなく海外で生活を始めたそうです。
彼は東日本大震災のことを鮮明に覚えています。
そして今も、地震が起こると小動物のように怯えます。
私は、自分が東日本大震災を実感していないからか、
どうして彼が怯えるのかも、わかりません。

東日本大震災とはなんだったのだろうと、
どうしても考えてしまいます。
私には、震災のことをきちんと知りたい気持ちも
きっとあるはずだと感じていますが、
なかなか、向き合うことができません。
何かしたいと思っているけど、
無責任になるような気がして踏み出せません。

ふだんの生活を滞りなく進めるために、
自分の感じたことを
頭のなかでテクニカルに処理して、
感情や考えの広がりを抑えることが
必要なときがあると思います。

ただ、メールを書いてくださった3人は、
東日本大震災を経て感じた疑問を、
なんとなく解決したことにも、なかったことにもせず、
立ち止まって考えようとしていました。

仮にその答えが見つからなかったとしても、
探していくうちに考えたことや、感じたことが、
3人にとって無駄じゃないと、僕は思いたいです。

次回に、つづきます。

2016-05-13-Fri