立命館アジア太平洋大学(APU)副学長・今村正治+糸井重里
はたらく場所はつくれます論。


第2回
学生を集めに150回以上韓国へ行った。

今村 立命館大学では
学園創立100周年を迎える2000年に、
記念事業として
何かしようとを考えていたんです。

そのとき
「究極の国際大学をつくりたい」と
言い出した人がいまして、
その「究極」ということを突き詰めたら
さっきの「3つの50」になりまして。
糸井 なるほど。
今村 実は、立命館は
1994年に滋賀県に大きなキャンパスを
つくったばかりだったんです。

お金も使い果たしまして(笑)、
もうヘトヘト、
勘弁してくれという状況にもかかわらず、
1995年9月に
別府に立命館アジア太平洋大学をつくると
決めちゃったんですね。

「はあ? まだやるの?」というのが、まあ、
当時の私の率直な感想でした。
糸井 でも、興味はあった。
今村 ありました。
ので、どんなところなんだろうと思って
現地へ行ってみたんです。

そしたら、
標高400メートルくらいの山のてっぺんに
草原が広がっていて「ここです」と(笑)。

そのとき、
本当に「原野商法」という言葉がですね、
頭をよぎって‥‥。
会場 (笑)
糸井 だって、霧がたちこめてましたもんね。
僕らが行ったときなんか。

そのくらい標高の高いところなんです。
今村 「山の上に大学をつくる」だけでも大変なのに、
「半分が留学生」なわけです。

何というか、難易度が高いとか低いとかを
越えている状況でした。
糸井 学生は、どうやって集めたんですか?
今村さん 従来のやり方だと、
まあ、海外や日本の日本語学校を回るんですけど、
そうすると、
中国や韓国の学生に偏ってしまう。

わたしたちの大学は、
「日本語ができなくても英語だけで入学できます」
という大学にしたかったので、
もっといろんな国で
募集をかけなければならなかったんです。

ですから、極端に言うと、
ある日突然、ひとつの部屋に集められて
「君たちは、この国の担当だから」
「じゃ、行ってらっしゃい」という‥‥。
糸井 大学の職員だからといって、
みんながみんな、
英語ができるわけじゃないですよね?
今村 当時は、できない人もいました。
糸井 僕はアフリカ担当と言われた職員さんに
聞いたんですけど、
「アフリカ」と言い渡されたときに、
もう、自分がアフリカに行って
学生を募集してるところをイメージして、
毎日暮らしてたんだって。
今村 一方で、ブラジル担当になった人は、
行く気まんまんで
『地球の歩き方』まで買って準備してたのに
「いや、君は在日大使館でいい」と。

「遠い国はお金かかるから」という(笑)。
糸井 あ、そういうパターンも(笑)。
今村 ええ、でも近い国は行きなさいとのことだったので、
主に韓国担当だった私は
結局、合計で「150回」くらいは行きました。

現地スタッフの人たちといっしょになって、
高校を100校ぐらい回って
説明会をやったり、事務所をつくったり‥‥。

本当に、誰にも相談できないんです。
だって、そういう経験ゼロなんですから。
糸井 そんな先輩、いないですもんね。
今村 「行け」という上司も
本当は、どうしたらいいかわからない。
前例がない中でどうするか、自分がやるしかない。

でも、やってしまえば自分が専門家ですから、
韓国のことは誰よりも詳しいということになります。
糸井 他の職員の人にも
当時のそういう話を聞くと、軽く言うんです、
「いやぁ、そうでしたね」って。
「イヤじゃなかったですか」と聞いても
「いや、べつに」って。

今村さんも、
「イヤだなぁ」と思わなかったんですか?
今村 思わなかったですね。
糸井 だから、そこなんですよね。

つまり、みんな、
「はたらく」って「イヤなこと」だと
思いがちじゃないですか。

でも、そうじゃなくて、
「ああ、俺は韓国の担当か。じゃ行くか」って
すっと行っちゃう、この感じは‥‥。
今村 ただ、当時の私は学生部にいまして、
どちらかと言うと「野党的」だったんですよ。

「失敗するぞ!」とか、茶々入れてたほう。
糸井 え、批判的だった?
今村 そうなんです。でも、すごく興味があった。

だから「お前、韓国へ行け」と言われても、
よろこんで行きました(笑)。
糸井 いまの話がすごく印象的だったから、
仮の話で、
うちの会社の乗組員に問いかけたんですよ。

全員が参加するミーティングで
「明日、アフリカに行けと言ったら行く人、
 正直に手を挙げて」
と聞いたら、ほぼみんな手を挙げたんです。
今村 そうですか。
糸井 絶対に行くのなんかイヤだって言うだろうと
思ってたから、
ちょっとびっくりしつつ、そうなのかあ、と。

なんだか、僕自身の考えかたが
古くなっちゃってたなあと、反省したんです。

<つづきます>


2013年の秋に
ほぼ日全員で見学したときに聞いた
APUこぼればなし。


「君たちは、この国の担当だから」

APUの開学のとき、職員のみなさんは
いきなり出張を命ぜられましたが
果敢に海外に出向かれたそうです。
職員の亀田直彦さんにうかがったところによると‥‥。

「留学生を世界中からリクルートをしてくる
 アドミッションズオフィスで事務職員をしています。
 2000年の開学から別府に入りまして、
 以来13年間、ここで勤務しております。
 開学当時、ベトナムやマレーシア、オセアニアあたりに
 歌手の方の営業のように出向きまして、
 太平洋をグルグルグルグル回って願書を配り、
 とにかく学生さんにご案内をさせていただきました。
 願書を空港やホテルにとにかく送りつけて、
 後追いでそこに行って、プレゼンテーションをする。
 そんなことを月の半分くらいやっていた感じです。
 きっと、考える時間があれば、
 どういうふうな場所に球を打てば学生さんがいるかなど
 マーケティングのようなことはしたかもしれませんが、
 私は1999年の4月に立命館に入ってそこから別府、
 要するに、開学まで1年を切ってる段階だったんです。
 ですから、調査とか、立ち止まって考えようとか、
 議論をしようとかいう文化は、皆無でした。
 APUが学生を集められなかったらどうしよう、
 開学できなかったらどうしよう、という議論も、
 1回もありませんでした」

一方その頃、亀田さんの「上司」であった今村さんは、
別府のごはん屋さんなどで
「国際学生、集められなかったらどうしよう‥‥」
と仲間と頭を抱えていたらしいです。

(このコラムも、つづきます)



2014-03-05-WED



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