イベント「活きる場所のつくりかた」より関野吉晴さんのおはなしグレートジャーニー、
地球を歩いて気づいたこと
第2回 
日本に来た人々のルートをたどったら。

さて、南米最南端からアフリカ・タンザニアの
ラエトリ遺跡までの旅を終えて、
ぼくは2004年から
「じゃあ、人々は日本列島にどうやって
 たどりついたんだろう?」
という旅を始めました。

日本の人々はどこからきたか。
それは、アフリカからやってきたんです。

じゃあ、どんなルートで?
いろんな所からやってきました。
大きく3つのルートがあります。
「北から」「朝鮮半島から」「南から」です。
そうしてやってきた人々の
混血でできたのが日本人なんです。
そこで、ぼくはその3つのルートを
それぞれ自分でたどってみることにしました。

最初は「北から」のルートを辿りました。
今は遺伝子を調べると祖先がわかるのですが、
ぼくの遺伝子を調べたら、
母方が礼文島の縄文人でした。
そこで縄文人と礼文島にすごく興味を持って
礼文島の船泊遺跡に行ったんです。

行ってみたら自衛隊の官舎ができていました。
もともと、官舎を建てようとして掘っていたら、
人骨や、縄文時代のいろんなものが
出てきた場所だったんですね。

それで、すごいんです。
その遺跡から出てきたものを見ると、
「イノ貝」という日本の南部にしかない貝で、
首飾りを作っていたり、
富山や新潟まで行かないとないはずの
「ヒスイ」があったり。
新潟かサハリンに行かないとないはずの
「アスファルト」もありました。
これは、縄文時代にはもう
人々がかなりの貿易をしてたということです。
縄文時代、人々は土器まで作ってたんですから、
これはかなり進んでいます。

実は2万年前、
サハリンと北海道はくっついてました。
当時は海面が今より
100メートル以上低かったんです。
だから、おそらく狩りですね、
野生のトナカイやマンモスを追いかけてきて、
人々がやって来たんだと思います。
これが「北方ルート」なんですね。

あと韓国のほうから
海を渡って日本にきた人もいますよね。
次にその「朝鮮半島からのルート」も、
たどる旅をしました。

そして、いちばん最後におこなったのが
インドネシアから来た人々の「南方ルート」です。
実は、南から人々がやってきたという
はっきりした証拠はないんです。
だけど、海を渡って日本にやってきた人も
きっといたんじゃないかと、やってみたんですね。

もともと「南方ルート」の最初は
インドネシアに行って、太古の船を探したんです。
けれど熱帯で竹とか木はぜんぶ腐るので、
もう何も残っていないんです。
しょうがないので、この旅は、
「素材をすべて、自分で自然から取ってきて作る」
というコンセプトでやることにしました。

また、ぼくはそれまで何人もの若い人から
「旅に同行させてください」って言われましたけど、
すべて断ってきました。
ただ、このときはいろんな気付きがあると思って、
自分だけで気付いてちゃもったいないと思って
初めて若者を誘って、一緒にやりました。

今日はその「南方ルート」の旅を短くまとめた
ビデオがあるので、
ちょっと見てもらえたらと思います。

「南方ルート」の旅は、
砂浜での砂鉄集めから始めました。
実は、この最初の部分だけズルをしました。
ぼくらは磁石で砂鉄をとりましたけど、
当時、磁石はないですから。
ほんとうは良い鉄を使わなければいけないのですが、
それを探してたら10年くらいかかるので、
そこはよしとしました。

そして、集めた砂鉄を
日本の昔ながらの「たたら製鉄」という方法で
人力で製鉄し、斧などの工具を作りました。
たった5キロの工具を作るのに、
120キロの砂鉄と300キロの炭が必要です。
300キロの炭を焼くためには、3トンの松が必要です。
実際にやると、鉄の工具をひとつ作るだけでも、
ずいぶんいろんな気づきがあります。

作った工具を持ってインドネシアに行き、
山の中でよさそうな大木を探して、
切り倒し、丸太舟を作りました。
インドネシアのこの地域の人々は
木に精霊が宿っていると考えますから、
まず、ほかの木に「切らせてください」と
お祈りしてから切ります。
設計図はありません。
いきなり切って、くり抜いて舟を作ります。
時間も手間も、そうとうかかります。

実はこんなことはやらずに、
インドネシアの船大工に設計図を持っていって、
「半年後に来るから作っておいてね」って言えば、
効率もいいし、時間もかかりません。
ですが、それでは何の気づきもありません。
だからこんなやりかたをしたんです。

そして、出来上がった舟をもとに、
GPSとかコンパスは使わず、
島影と星だけを頼りに旅をしました。

近代ヨットだったら真正面からの風でも
ジグザグに行けば先に進めます。
ただ、ぼくらの舟は原始的なものなので、
後ろから風が吹かないとだめなんですね。
ですから実際に風の力で移動できたのは
この旅全体の3分の1だけ。
あと、3分の1は漕いでました。
漕いでも時速2キロでしか進まないんですけど(笑)。
そして3分の1は待ってました。
そんな旅でした。

曇っていて星が見えない時は、
風の方向をたよりに進むのですが、風もよく変わります。
最後のたよりは波の方向ですね。
あとは明け方まで「こっちかな」と想像で漕いで、
「‥‥あれ、今、どこにいるんだろう?」
ということもありました。
1年で終わる予定が、3年くらいかかりました。

日本人4人に、インドネシア人6人。
言葉も違う、年齢も違う、文化も宗教も違う10人が、
全部この舟の中で寝ました。
ずっと一緒で、喧嘩もたくさんしました。
食べ物も違って、いろいろ問題が置きました。
彼らがホームシックで逃亡しようとしたりとか、
いろいろ事件はあったんですが、
最終的には、無事に日本までたどりつきました。

インドネシア人は5人がマグロ漁師、
1人が山のきこりです。
彼らはイスラム教でいろいろ制限があるので、
食事はぜんぶ彼らにまかせました。
漁師がいるから、魚を獲るのもうまいんです。
ただ、カツオが取れても、
刺身を食わせてくれない(笑)。
こんなに魚を生で食べるのは日本人だけです。
とはいえ助かったのは、
彼らが米が好きだったということでした。
もし彼らの主食が芋だったら、
日本人クルーは、かなりつらかったと思います。
そして彼らはすごいんです。
海がどんなに荒れていようが、
朝と夕方、ご飯だけはかならず炊きます。
(会場笑)

実はぼくは、この旅で食べるものは
少なくとも工場で作るようなものは、
やめようと思ってたんです。
けれども彼らに
「航海に際して、なにか、
 絶対これがなきゃいけないというものはある?」
と聞いたら、
「インスタントラーメンだけは
 どうしても持って行きたい」
というので、そこは諦めました。
(会場笑)
彼ら、ラーメンライスが大好きなんです。
あと漁師なのに、イワシの缶詰が大好き、とか。
果物は、マンゴーとかライチとかバナナが
豊富にあったのでよく食べていました。

最初はメンバー6人探すのが大変だったんです。
一緒に旅に来てくれた
インドネシアのマンダール人たちというのは
大家族で住んでいて、
ほとんどの人は両親に反対されたら終わりです。
若い働き手は非常に重要でもありますし。
あと最初のときには
「日本に行くと売っぱらわれるぞ」
という噂が広まって、大反対されました。
(会場笑)
いや、正直なところ、彼らはすごい働き者ですけれども、
売れるような人たちじゃないというか‥‥。
あの、売っぱらうわけが、ないんですけれど(笑)。

でも、実際に航海しはじめる段になると、
みんな、日本に来るのを
とても楽しみにしてくれました。
それから、この旅に参加することを
誇りに思ってくれました。

ただ、手作りの船なので、
なにしろ時間はかかったんですね。
時速10キロとか、
歩いたほうがよっぽどましな速さで
進んでましたから。
半分の行程だけで100日以上かかりました。

1年で終わる予定が、結局天候などの関係で
1回で日本までたどり着くことができず、
途中で2度ほど旅を中断することになりました。
ぜんぶで3年かかりました。

最初に旅を中断したとき、
インドネシア人たちが周りから
「ほら見ろ、行けなかったじゃないか」と
馬鹿にされるんじゃないかということを
ずいぶん心配していました。
ところが実際にはみんなから
「え? フィリピンまで行ったのか。すごいな」
と言われたらしいんです。
それで、2回目以降もみんな
「行きたい、行きたい」と
同じメンバーが来てくれて、
それ以降もいっしょに行けることになりました。

ただ、悲しいこともありました。
2011年の3月11日に地震があったときの直前、
津波とは関係なく、事故でなのですが
キャプテンの1人がインドネシアで亡くなりました。
だから3年目の航海では
すこしメンバーが変わりました。

また「方角は太陽の位置からわかるから」と
コンパスは持っていかなかったのですが、
彼らはイスラム教なので、
全員ではないですが、朝と夕方、
メッカに向かって礼拝します。
その方角がわからない、と彼らに嫌がられたりもしました。

また、年寄りを大切にする文化なので、
日本の若い隊員が、年配のインドネシア人に向かって
ちょっと対等に小言を言ったりすると
「馬鹿にされた」と何日も口をきいてくれないとか、
そういったトラブルも、けっこうありました。

でも、こういう旅というのはたいてい、
学術探検隊でさえも、旅が終わったら
「二度と口をききたくない」なんて関係になるのに、
みんな今でも付き合いをしています。

あと、おもしろかったのが、
この旅は、島の沿岸部をちょっと行って止まり、
ちょっと行って止まり、進むんですね。
ただ、海峡を渡る時だけ
時間をかけて海を越えなきゃいけないんで、
そのときは時期を見計らって行くんです。
場合によっては、渡るための天候が来るまで
延々と待ち続けることもあります。

そして、旅のさいご、
台湾から西表島までの300キロの海峡を
渡らなければいけなかったんですね。
旅の最後の難所です。
そして、このとき、台風が来ました。
だけどぼくらはこのとき、
「東に向かってるから」ということで、
台風を利用して進んだんです。
ボロ舟ですから、ちょっと荒れてるほうが
走るんです。
(会場笑)
風速15メートルだと怖いんですけど、
ちょうど南風10メートルで、メチャクチャ速かった。
まさに神風でした。
もっとかかるかと思っていたのに、
さいご、すごくあっさり着いちゃいました。

南米からアフリカまでの旅の途中で
難所のベーリング海峡を渡ったときも、
天候に恵まれて、思いがけず早く
渡れたことがあります。
こういう旅をしていると、
そういうことがあるんですよね。

(第3回につづきます)

2015-05-20-WED