第9回 脳は、身体あってのもの。
糸井 「脳」や「知」が、
身体よりもえらいものとして
とらえられるようになったのは、
生物の歴史を考えるとつい最近の話なんですね。
池谷 そうですね。
生物の歴史40億年に対して、
脳の歴史は5億年くらいですから。
最後の10パーセントくらいしかないんですよ。
最近の研究によれば、人がことばを
使いはじめたのもわりと最近みたいです。
これは、失語症家系の遺伝子の研究から
少しずつわかってきたことなんですが、
「ことばをつかえるための遺伝子」が
人の遺伝子のなかに現れるのは、
人類が生まれてからしばらく後だったようです。
糸井 つまり、人類には、しばらくのあいだ、
ことばがなかった。
池谷 もしその学説が正しいとすると、
まさに、そういうことになりますね。
その「ことばの遺伝子」を獲得したことで、
たぶん、私たちは、
サルとは決定的に違う存在になったと。
糸井 それまでは、黙ってたのかな。
池谷 あるいは、動物のように鳴いていたか‥‥。
糸井 でも、たぶん、ことばがなかったときも、
人と人とはコミュニケーションをして、
いっしょに生きてたんでしょうね。
池谷 ええ。そのころ、すでに集団をつくってるんです。
それは遺跡とかを調べるとわかるんですね。
でも、いっしょにいて、ことばもなくて、
じゃあ、なにをやってたんだろう、って考えると
わくわくするんですよね(笑)。
糸井 いや、それこそが、吉本隆明さんの言う
「ことばの幹と根は沈黙である」
っていうことだと思いますよ。
池谷 ほー、「沈黙」。
糸井 吉本隆明さんがここ数年、
おっしゃっていることなんです。
そのひと言だけでもう、
ぼくはどれだけ助かったかわかんない。
やっぱりね、
「ものがうまく言える人がえらい」っていうのは
間違っていると思うんです。
それは、戦争中の国であるとか、
ある種の極端な宗教もそうだと思うけど、
けっきょく、うまく言える人が、
うまく言えない人を、奴隷にしてるんですよ。
でも、うまく言えない人が劣ってるのか
っていうと、劣ってないわけで。
池谷 うん、うん。
糸井 昔、アフリカに生まれて、
英語とは別の言語をしゃべっていた人たちが
貶められてしまったりとかね。
ぼくは、コピーライターだったりするから、
自分がことばをつかってるという自覚が
もちろんあるんですけど、
自分がことばをうまくつかえばつかうほど、
自分のことばに自分が操られてる、
という面があることがわかってくるんです。
ちょっと違う例でいうと、
たとえば昔の学生運動なんかでね、
A派とB派で、どっちの理論が正しいか、
殴り合い寸前みたいな議論をしているときに、
うまく言える先輩が出てくると、
その人がいるほうが勝ちになっちゃうんですよ。
で、もっとうまく言える人が出てくると
今度はそっちが勝っちゃう。
それっておかしいだろうと思ったんですね。
ほんとは理論の話してるはずだったのに。
池谷 そうですね。
言葉を巧みに扱える能力と、社会的優位って
みごとに相関しますものね。
糸井 そうなんです。
だから、たしかにぼくはことばをつかいますけど、
なんとか、ことばをうまくしゃべれない人の
代弁をすることばのつかい手に
なりたいって思ってるんです。
池谷 うん、うん、そうですよね。
でも、そういう大切なことをはっきりと言う人って
あまりいませんよね。
糸井 できてるかどうかは、わかりませんけど。
とにかく、ことばに引っ張られすぎちゃいけないって
しみじみ思うようになったんです。
吉本隆明さんの芸術に対する考え方でいうと、
ストーリーもセリフも、
ほんとうはどうでもいいんだそうです。
つまり、それは枝葉に過ぎないと。
人が感動するのは、ほんとはそこじゃないって
おっしゃっているんですね。
あと、先日、お亡くなりになった
多田富雄さんという方は、
晩年、かなり病気が進行してて、
いろんなことがほとんど難しくなった状態でも、
能の舞台を観てぽろぽろ泣いていたそうです。
それはもう、絶対にことばじゃない。
そんなことだらけですよね。
池谷 たしかに、ことばとかセリフで感動してるうちは、
まだ、知的なたのしみでしかないですよね。
糸井 そうなんです。
ほんとに大事なのはその根っこにあるもので、
言い回しとか、セリフなんていうのは、
コミュニケーションにすぎないんですよ。
もっと重要なのは、
コミュニケーションの元にある、
なにかなんですよね。
池谷 はーー。
糸井 とくに、日本語というのは、
表層のコミュニケーションじゃないところに
ほんとうに大事なものがありますからね。
たとえば、遠くへ離れていく男の人と、
残される女の人がいて、
見送る女の人がいつまでも手を振ります、
って和歌のなかに詠まれるとき、
ほんとに伝えたいのは
振られている手じゃなくて、
手をいつまでも振ってる理由ですよね。
いつまでも振っているってことを
描写したくなる心ですよね。
池谷 はい、そうですね‥‥。
いや‥‥あの、さっきから、
じつは、ちょっと驚いてます。
いま「コミュニケーションにすぎない」という
表現をつかわれましたよね。
10年くらい前、糸井さんとお会いして、
『海馬』の話をさせていただいたとき、
糸井さん、そういうことは
まったくおっしゃらなかったので。
いや、感動しているんです。
糸井 (笑)
池谷 10年前の糸井さんはむしろ、
「大事なのはコミュニケーションだ」って
おっしゃってたんです。
糸井 はい。
ぼくは、コミュニケーションを信じてました。
池谷 でも、いま、
「それはコミュニケーションに『すぎない』」
っておっしゃっている。
糸井 うん。
「コミュニケーションにすぎない」って、
いまのぼくは断言しますね。
別な言い方をすれば、コミュニケーションって
たしかに大事で便利なものだけど、
「機能にしかすぎない」。
池谷 ああ、私にはその言い方のほうがわかりやすい。
糸井 で、もっというと、
機能としてのコミュニケーションは
「ある価値にしかすぎない」。
価値なんて、ある時期の道徳の一種ですよ。
ある虫のことを、ある時代には益虫といい、
ある時代には害虫というような。
道徳、価値、機能としてのコミュニケーション。
そこにぼくらがどれだけ引きずられてきたか。
池谷 そうなんですよね。
ただ、残念ながら、その枠組なくしては、
私たちの思考がうまくできないというのも、
また一方で事実なんですよね。
糸井 だから、その枠組みを疑わないどころか、
「この枠組みこそが、大事なことだ!」って
言いたくなっちゃうんですよ。
池谷 言いやすいんですよね。
それを疑わないほうが、エネルギー的にも楽だし、
明快な自己満足感も得られるから。
糸井 酔うんだろうね。でも、たとえば
ことばのコミュニケーションが
なにより大切だとすれば、
ことばを獲得する以前の人類のつながりを
認めないことになっちゃうんですよ。
池谷 うん、うん、まさに、そうですね。
糸井 犬と犬とが狩りをしてるときに、
助け合ったりしてるようなことを、
認めないってことになっちゃう。
あるいは、犬が飼い主をじっと見つめる視線を
「なにも意味してない!」ってことになっちゃう。
同じ犬好きとしてそれは違うって
わかるでしょう(笑)?
池谷 はい、それはもう(笑)。
あの、私、犬をもう1匹、飼いはじめたんです。
イタリアングレイハウンドっていう犬なんですが。
糸井 ああ、はいはい。
池谷 その犬が、無言で私に伝えてくれることの大きさに
最近気づいているんです。
グレイハウンド系の犬って、
走るとき、馬みたいに走るんです。
「ダブルサスペンションギャロップ」
っていう走り方らしいんですけど。
ふつうに歩くときもですね、こう、足を高く上げて、
タッカタッカと歩くんですよ(笑)。
浮き浮きするような感じで。
あれを見てると、それだけで、
しあわせになるんですよ。
厳密にはコミュニケーションじゃないんだけど、
でも、人を笑顔にさせる雰囲気があるんです。
糸井 いや、それこそが、
ことばの根っこにある「沈黙」の力ですよ。
池谷 そうですね(笑)。
糸井 つまり、陽が昇ってくるのを見るとき、
ことばを持ってない人類も、
「陽が昇ってくる」っていうのを
ことばではない、なにかとして感じますよね。
池谷 はい。「うわー!」って。
簡単にいっちゃえば、感動ってやつなんですけど、
でも、そういうことばだけでは
単純にとられきれないなにかですよね。
糸井 そうそう。
それとおんなじようなものが、
ことばを獲得した現代にだって、
もう、そこここにあるんだと思うんです。
だから、「犬が浮き浮き歩いている」のは、
「陽が昇ってくる」ことと同じなんです。
池谷 はい(笑)
 
(つづきます)
2010-10-08-FRI