(8) 人の言葉を指摘するより
糸井
Twitterを見ていて思うんですが、
言葉を警察したがる人っていうのは、
どういうことなんですか。
飯間
「言葉は美しく、正しくしていこう」という
善意で指摘をしている人もいるかもしれません。
言葉を乱す悪者が世の中にいっぱいいて、
この悪者を退治しない限り言葉はよくならない、
というふうに考えてると、
どうしても警察行為に走っちゃうんですね。
あ、「警察行為」というのは、今つくった言葉です。
糸井
まさしくそうですね(笑)。
僕もね、できたらきれいな言葉のほうが
いいなと思っているんです。
だけど、過剰に角を突き合わせて、
争い事の元になることをワーワーやっていると
自分も不自由になるし、みんなも不自由になるから。
相手が間違っていても、自分がきれいな言葉を
使ってみせればいいじゃないかと。
飯間
あ、そうですね。
それはたいへん的を射たことをおっしゃい‥‥
糸井
「的を射た」もね(笑)。
飯間
私は、「的を得た」とも言うんです。
では、「たいへん的を得た」。
両方、言っておきますね。
一同
(笑)。
飯間
見坊豪紀先生が三省堂国語辞典を編纂していた時代にも、
辞書に俗語がたくさん載っていまして、
「こんな汚い言葉を辞書に載せるとは何事か」という、
利用者からの投書が多かったんだそうです。

そこで見坊先生は文章を書きまして、
「確かに私の辞書には汚い言葉がたくさん載っています。
でも、それは現実の日本語そのままで、
鏡のごとく映した結果なんです」
という意味のことを述べられた。その上で、
「辞書を攻撃する前に、日本語そのものを
美しく育ててください。
辞書はしぜんに美しく清潔になります」
(『ことばの海をゆく』)
とおっしゃったんですね。
糸井
うんうん。
飯間
「お前の言葉がなっとらん」とか、
「辞書がなっとらん」ではなくて、
まず自分が一番いいと思う言葉を
話したらいいんじゃないかということなんです。
糸井
本当にそのとおりですね。
飯間
「いい言葉」とは、「自分が最も適切だと思う言葉」
と言い換えてもいいかもしれませんね。
周りの人を批判するのではなく、
「あなたが実践しなさい」ということなんです。
そういう人が多くなれば、
みんなが自然にきれいな言葉を話すようになります。
糸井
そうですね。
飯間さんが、あえて選んで使っている言葉って、
なにかありますか。
飯間
選んでいるというのではないんですが、
私自身は、じつはひどく保守的で、文章では
「そうだろ、なあ、みんな」のような
話し言葉の文体が使えないんです。
俗語もほとんど使わない。
だからといって、別の人が書いても、
それこそ、「全然嫌だとは思わない」ですね。
私の書く文章って、教科書に載るぐらい、
いい子ちゃんの言葉で書いているんです。
Twitterも概ねそうです。
糸井
気をつけていらっしゃいますよねえ。
飯間
そうですね、ええ。
たまに「これ、やべえんじゃね?」とか、
わざと書くんですけど、
あくまでも、わざと書いているんですね。
糸井
わざと使っているのは、ちゃんと伝わります。
ツイートを連投したときに混ぜるんですよね。
飯間
ありがとうございます。
「これはわざと俗語を使ってますよ」
というのがわかるように書くんですが、
私自身は、ほんとにいい子ちゃん言葉なんです。
だからといって、
「あなたもいい子ちゃん言葉を使いましょう」
ということはいっさい言わないのが基本ですよね。
糸井
そうですね。
飯間
言葉警察さんに声を大にして申し上げたいのは、
「まず、あなたの言葉をきちんとして、
美しい言葉で文章を毎日書いてみたらどうですか」と。
そうしたら、自分の言葉を彫琢するのに
精一杯になって、人のことなんかどうでもよくなります。
その警察行為っていうのは、そんなに‥‥。
糸井
立派なことでもないし、
何かを良くすることでもないです、とね。
飯間
あ、そうですね。
糸井
みんなが警察行為をしたからといって、
ちっともよくなんかならないです。
飯間
はい、よくならないです。
糸井
よくなるとすれば、
みんなに憧れるような言葉をずっと使っていたら、
カッコイイなあと思った人たちが真似するでしょう。
飯間
ああ、そうですね。
糸井さんのおっしゃることを具体例で申しますと、
昔、鎌倉時代に日本語の仮名遣いが
すごく乱れていたことがあるんです。
なぜかというと、日本語の音韻体系が
歴史的にだいぶ変わって、
新しい発音をどうやって仮名遣いで書くかが
わからなくなってきたんですね。
好き勝手に、自分の信ずる仮名遣いで書いてたんです。
糸井
へえー。
飯間
そこに、和歌で有名な藤原定家が出てきまして、
古い文献を自分で調べて、
「昔はこの仮名遣いで書いていたから、
俺はこの仮名遣いで書くよ」ということを、
「僻案(へきあん)」(または「下官集」とも)
という文書の中で、みんなに示したんですね。
糸井
いい言葉ですね、「僻案」。
飯間
「僻」っていうのは、
「かたよった、くだらない」という意味ですね。
糸井
くだらないと、へえー。
飯間
「くだらない案ですよ」ということですね。
仮名遣いについて昔の文献も調べて考えたけども、
あくまでも、つまらない案で、
私が書く場合のルール、というふうに見せたんです。
藤原定家が自分で写本を作るときは、
確かに僻案の仮名遣いで書いているんですよ。
そうしたら、定家という人は魅力的な人ですから、
「あ、私もこの仮名遣いで書きたい」
という人が増えまして、
鎌倉時代以降は「定家仮名遣い」というのを、
みんなが使うようになったんです。
糸井
言葉は聞いたことがあります。
飯間
そうでしょう。藤原定家が広めた、
「定家仮名遣い」をみんなが使うようになって、
江戸時代までずっと続きました。
糸井
へえー!
飯間
「皆さんは好きに書いてください。
私は僻案、つまらない案の仮名遣いで書きますよ」
とやっていたのが、
やがて、みんなの仮名遣いを変えていったんです。
これは一つのモデルになると思いますね。
糸井
つまり、モデルになる考え方が魅力的だったら、
人は自然に集まってくるということですね。
飯間
そういうことです、ええ。
糸井
それは、自分の考えに近くていいなあ!
どっちが正しいかを決めるより、
いいだろうっていうものが一つ出てくること。
違っていたら直せばいいし、
憧れる人がいたらついていけばいいし。
僕も、だいたいのことをやるときに考えることですね。
飯間
ああ、そうですか。
糸井
「ほぼ日」がやっていることは、
僻案を絶えず出しているということですね。
飯間
ああ、なるほど。
糸井
だから、バカにされることもあるし、
怒られることもありますけど。
飯間
ほぼ日刊イトイ新聞で、
「これは僻案ですよ」と出しているところに、
読者が「それ、いいね」と賛同している。
糸井
「私もそれ、使っていいですか」ということですね。
例えば、切実なことをいうと、
震災があった3月11日の翌々日に
Twitterで寄付に関する僻案を出したんです。
僻案だったんですよ、ほんとうに。
だけど、誰かが僻案を出さないと、
つまらないところに落ち着いちゃうと思ったんです。
そうしたら、「私もその考えにします」
という反響があったんです。
こんなことを、ずっと繰り返しているんだろうなあ。
いやあ、飯間さんとお会いして解放されました。
飯間
ああ‥‥そうですか。
糸井
自分もそうだと思っていたことでも、
僕からの言いっぱなしだと僻案のままですから。
どこかで「わあっ、つながっていたな」
ということがあると、みんなに勇気が出るし、
自分がもっと僻案を出せるようになる気がするんです。
飯間
なるほど。
私、他のことでは何も有効なことは言えませんが、
言葉のことであればですね、
一番妥当だと思うことはいろいろ持っていますので、
糸井さんと意見が一致したようであれば光栄です。
糸井
嬉しいです。
(つづきます)
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2017-01-20-FRI