(1) レクシコグラファーは弁明せず
糸井
このところ、Twitterのおかげで、
飯間さんのお話はずっと拝見していました。
こういう問題意識を持っている人が
辞書を作っているんだと思うと、心が楽になりまして。
飯間
あっ、そうですか。
辞書の仕事はすごく地味で、
表に出ることがないので、たいへん光栄ですね。
先ほど、ほぼ日の星野さんがお手持ちの
古い三省堂国語辞典を見せてくださいました。
糸井
使い込んでいますね。
飯間
これには感動しましたね。
付箋が貼ってあって、この付箋は長い間、
いろんなところに貼られたんでしょうね。
この辞書を作ったのは、
見坊豪紀(けんぼう・ひでとし)さんという、
業界では「巨人」と呼ばれる人なんですが、
この第四版まで携わっています。
糸井
はあー、そうですか。
飯間
辞書の作り手を難しい言葉に置き換えると
「レクシコグラファー」というのですが、
見坊先生は「レクシコグラファーは弁明せず」
とおっしゃっていたんです。
つまり、辞書を作る人間にとっては、
この作品がすべてだから、
辞書について自ら語ることは、
はしたないということだったんです。
私がTwitterで、ああだこうだと語っているのを
見坊先生は眉をひそめるかもしれません。
糸井
お話をしたことは、あるんですか。
飯間
私が辞書の世界に入ってきた時には、
先生はもう、亡くなっていまして。
糸井
じゃあ、会わないままで。
飯間
そうなんです。
でも、私にとっても巨人であり、
神様みたいな人なんです。
糸井
たしか、新しい第七版でも、
最初に見坊先生の名前が書かれていますよね。
飯間
ずっと、見坊先生の精神で辞書を作っているんです。
あの、ちょっとこじつけのようですけども、
見坊先生が亡くなった日が10月21日で、
私が生まれたのが10月21日なんです。
糸井
ちょっと嬉しいですけど、
「そういうことを言うものじゃない」というのが、
見坊先生のお話なんですね(笑)。
飯間
ああそうか、そうですよね(笑)。
表に出たがる私は、辞書作りには
向かない性格だと思っています。
糸井
いい加減な言い方ですけど、両方わかるんですよね。
ある人が「こうしたい」という意向を示した時に、
みんな一旦は「そうだ、そうだ」と言うんですけど、
いろんな専門家が一所懸命考えて話し合ったら、
「それは困る」という反対側の意見も出てきます。
規則の中には例外もたくさん出てくるわけで、
この例外処理を良しとするならば、
同じような時に全部対応できないと困る。
だから、「いけません」と言ってしまわないと、
薮をつついてしまうんじゃないかと。
それが見坊先生の立場ですよね。
飯間
辞書の説明も、喋りすぎないのがいいんです。
ある言葉について、Aというイメージを持つ人も、
別のB、Cというイメージを持つ人もいる。
そこに、この辞書を作る編纂者自身が
主観に基づいて「これはAですよ」と言うと、
BやCの人は「えっ」と違和感を持ちますね。
たとえば、「凡人」の意味を説明して、
「他に対する影響力が皆無のまま一生を終える人」
と書く辞書がありますが、これはいいのか(笑)。
辞書を使っている人の中には、
そう考える人もいれば、違うふうに考える人もいる。
あらゆる人に等しく辞書を愛用してもらうためには、
「私の見方ではこうだ」という面を押し出すと、
客観性を欠くということになるわけです。
主張せずに、黙っているほうがいいこともある(笑)。
糸井
経験則として、黙っているとだいたいのことは
溶けていってしまうんですよね。
海の中に一滴の毒薬を落としたとしても、
溶けていってしまうのを待てば、誰も困りません。
定義やルールって、そういうところがありますね。
忘れちゃうのを待つことで成り立つことが、
山ほどあると思うんですよ。
飯間
言葉の変化についての議論なんか、まさにそうです。
人間の浅知恵でどうこうしようとしても、
その上位には自然の摂理というか、
科学的原理のようなものがあるんでしょうね。
で、我々がこっちのルールで行こうと思っても、
本来の真理のほうに、引き戻されるわけですね。
糸井
はい、そうです。
飯間
人間は、自分たちがこの世で一番偉いと思っていて、
浅知恵で何とかなるんじゃないかと考えるのですが、
それは結局、浅知恵にしか過ぎなくて、
物事はなるようにしかならない。
そういうことでしょうかね。
糸井
ルールは、人間が作るわけですよね。
言葉というのも、まさにルールですけど、
抽出した事実が先にある
ルールであることが多いですよね。
飯間
言葉の誤りだとか正しいだとかを、
どう考えるかということだと思うんです。
言葉というのは、ある意味で
人知を超えたところがあるんです。
言葉は、神から授けられたものではなく、
人間が自分でつくり出したものなんです。
ところがですね、
「この言葉はこういうふうに話そうね」と
みんなで決めても、思い通りにいかないわけです。
人間がつくり出したものだけども、
人間を超えたところで動き出しているという、
そこにおもしろさがありましてね。
糸井
うん、うん。
飯間
結局、人間が浅知恵で考えるよりも上にある、
天然、自然の原理に基づいて
言葉が動いているようなところがあるわけですね。
そうすると、例えば私がある言葉について
「これは正しいですよ」と言い、
別の人は「間違いですよ」と言うことがある。
正しいか間違いか、どっちが当たってるかというと、
結局、どっちも当たってなかったりして。
気がつくと、その言葉自体がもう時代遅れで、
忘れられちゃっていることもあるんですね。
糸井
ああ、消えているかもしれない。
飯間
ええ、新しい言葉がどんどん使われていて、
その言葉について議論をすることが、
時間の無駄だったりするんですよ。
糸井
議論をし尽くしているうちに、
時代が動いちゃっていますもんね。
飯間
ええ、そうですね。
いいか悪いかということで、
いつまでも議論をしている言葉の例では、
「超おもしろい」という言い方があります。
最近でも、新聞の投書欄などで、
「『超おもしろい』というのはいかがなものか」
と批判する人と、
「『超おもしろい』も若者言葉として認めるべきだ」
いう人がいて、議論をしていることがあります。
ところが、実際の今の若い人は、
「ガチおもしろい」「めっちゃおもしろい」
などと言っている。
糸井
そうですね、ええ。
飯間
「超おもしろい」は、もはや若者言葉ですらなくて、
糸井さんの世代だってお使いになりますよね。
ですから、「『超おもしろい』是か非か」などと
新聞の片隅で議論していても、
それは時間の無駄ということになるわけです。
糸井
そうですねえ。
流行りというものは感情のもので、
ロジックが流行らせたわけでもありませんよね。
「よりフィットする」というだけで使っているから、
みんなが使いだしたときには他人の言葉になって、
フィットしなくなるわけですよね。
オジサンまでが『超おもしろい』と言った日には、
「オジサンが使っている『超おもしろい』は、
俺が最初に思ったときの感じと違うんだよ」って、
そこから逃げなきゃいけなくなるんですよね。
飯間
逃げるために、また新しい言葉を作っていくと。
糸井
「超」が「ガチ」といった別の言葉になりますが、
まったく新しい言葉はないから、
おもしろいんだなって思うんです。
飯間
糸井さんがおっしゃるように、
ある言葉が広まって、広まりきってしまうと、
それはもう、新しい意味を持たなくなるわけですね。
そこで、また新しい言葉をつくるんですが、
従来の材料で言葉をつくっているんですね。
「ガチおもしろい」、「ガチうまい」、
あるいは「これ、やっべぇうまい」って言いますね。
この「ガチ」だとか、「やっべぇ」というのは、
「超」などの言葉を更新したものですが、
「ガチ」は相撲の「ガチンコ」から来ている、
従来の言葉ですよね。
「やっべぇ」「まじやばい」っていうのも、
アウトローが使った「ヤバイ」という、
危ないっていう意味の言葉ですから、
もともとある言葉を使っているんです。
いくら若者が新しがり屋でも、
従来の素材を使わないで、まったく存在しない
新しい言葉を使うのは難しいんですよね。
(つづきます)
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2017-01-11-WED