(4) 自己表出と指示表出
糸井
「言葉は生き物だから、流れるに任せろ」というのも、
それでは、つまらなくなるんですね。
一応、「中心点はこの辺を見ておいてね」
というのがないと、つまらなくなるんですよ。
同時に「それはダメだ」っていうルールの中で
動けと言われたら、つまらなくなるどころか、
言葉がもともと持っている力強さが無くなるんです。
飯間
息苦しいですね。
糸井
さっき、社内のみんなに話す機会があって、
そこでは価値の話をしていたんです。
「価値って何なんだろう」ということを、
人はずうっと考えてきました。
価値の歴史にマルクスが気づいたのが、
使用価値と交換価値、『資本論』ですね。
それを見たソシュールや吉本隆明さんが、
「言語にとって美とはなにか」を書き始めた。
吉本さんは、「自己表出」と「指示表出」という
二つの言葉に分けて話しました。
飯間
私は知らないので、教えていただけますか。
糸井
つまり、自己表出というのは
「あーっ!」とか「痛い!」とか、
体内から出てくる音のようなものです。
意味を厳密に捉えるものじゃなくて、
溜まっていた沈黙が凝縮されて形になるのを
「自己表出」というふうに名付けたわけです。
それと、機能をもとにした価値が「指示表出」です。
いま、僕が手にしているものは
誰が見ても茶碗ですが、
茶碗の定義とは何かというと、辞書に書いてあって、
そのものを指示しているわけですね。
自己表出と指示表出の交差するところに芸術がある。
飯間
はい、はい。
糸井
「指示表出」だけでも人はしゃべれるんです。
だけど、「自己表出」の部分がないと
感動が生まれない、美が生まれない。
飯間
「指示表出」プラス「自己表出」で美が生まれると。
糸井
例えば、万葉集に旅立ちを見送る人がいます。
当時は、旅に出るということは、
死の危険があるようなことです。
だから、別れ際の二人が名残を惜しんで、
いつまでも手を振っている姿が見える。
この状況を、指示表出だけで捉えると、
「手を振っている人たちがいました」。
でも、この情景を描いた詠み人の中には、
感じて欲しいものがあって、
受け取る側からしても、
そこを「美」として感じるわけですよね。
飯間
はい。
糸井
今風にいうと、品川庄司の品川くんが、
有吉くんによって「おしゃべりクソ野郎」と
名付けられた瞬間があるわけですね。
飯間
有吉さん、名付けの天才ですからね。
糸井
そうですね。
有吉くんは「おしゃべりクソ野郎」というのを
ずっと、心のなかで思っていたんですね。
「おしゃべりめ、クソめ、あの野郎」と。
言葉にならないままに、
ずっと品川くんを見ていて思っていたことを。
飯間
感情レベルで思っていたけれども、
それが指示になったわけですね。
糸井
ポンッと出しちゃったものを、
人も承認したわけですよね。うわーっと。
それまで「お笑いの品川さん」として
語られていた品川くんが、
有吉くんの自己表出が出たことで、
「おしゃべりクソ野郎」が、
今度は指示表出に変化するわけですね。
あのあだ名が、まさしく交差点にあったから。
飯間
そこが、美を生んでいるわけですね。
糸井
品川くんは、それまでの実績を吹き飛ばされて、
その時から「おしゃべりクソ野郎」に、
なっちゃったわけですね。
だから、自己表出の部分というのは、
辞書ではほぼ言えないんだと思うんです。
飯間
確かにそうなんですが、
自己表出が指示表出に変わるその瞬間を、
辞書は捕まえたいと思うわけです。
「個人的な表現が、一般に共有されはじめたな」
そんなふうに気づくとき、
辞書編纂者は美を感じるところがあります。
ある言葉が、それまでとは異なる意味で
使われるようになった、と気づくようなときです。
例えば、「余裕」という言葉ですかね。
糸井
余裕。
飯間
従来の「余裕」というのは、
「何かのために使える余った部分」です。
これは当たり前ですね。
もう一つは、「焦らず落ち着いていること」。
それは心にまだ余った部分があるから
落ち着いていられるんでしょうね。
糸井
はい。
飯間
ところが、糸井さんがメディアに出られた頃に、
「これくらいは余裕だ」という言い方が流行りました。
余った部分があるのでもなく、
焦らず落ち着いているのでもなくて、
自分が「落ち着いていられますよ」という気分のことを、
「これぐらい、よゆーよゆー」って言うんですね。
これは従来の意味から、ちょっと外れる部分なんです。
でも、これはまだズレ方が少ない。
もっと大きくズレた用法もあって、
例えば「単位を余裕で落とした」って言うんです。
糸井
はあー、もう辞書に載っているんですか。
飯間
辞書に載せたんです。
「単位を余裕で落とした」のような使い方も、
1980年代から例があるんですね。
糸井
へえー。
飯間
大学の単位を落としたら、
心に余裕が無くなると思うでしょう?
ところが「俺、単位を余裕で落とした」というのは、
もともと、その単位が得られる見込みがなくて、
単位を落とすことがギリギリではなく、
余裕をもって決まっているという状態ですね。
糸井
負の余りだ。
飯間
そう、負の余りなんです。
糸井
はあー、負の余り。
飯間
そうすると、もとの指示表出から離れます。
糸井
離れますね、うん、うん。
飯間
今の学生だけじゃなくて、
ちょっと上の世代の人でも言うわけですね。
だから辞書に入れたんです。
糸井
あっ、「俗」って書いてありますね。
飯間
そうですね。ここまで来ますと、
相当、もとの意味からは離れているので。
糸井
正と負をひっくり返す応用編は、
僕は「ファッキン」で感じたんですよ。
最悪の悪口ですよね、ファッキンは。
だけど、「すげーいいな」というときにも、
「ファッキン」を使いますよね。
飯間
もとは悪い意味だったのに。
糸井
そうですね。だけど、どっちの意味で使っているかは、
文脈の中で一目瞭然なんですね。
その「ファッキン」と、真逆にあるのが「ジーザス」。
「最高によかった」は「ジーザス」なんだけど、
最悪のときも「ジーザス」なんですね。
「ジーザス」と「ファッキン」みたいに、
ひっくり返す使い方をしている言葉が、
日本語にはなかなか無いなと思っていたんです。
ところが、今の「余裕」を見ていたら、
日本語が、もしかしたら英語文脈の
俗語の作り方の影響を受けたんじゃないかなと。
飯間
いや、それは影響ではなくて、
言語には、もともとそういう性質があるんです。
糸井
聖と俗がひっくり返ることがある。
飯間
そうですね、入れ替わることは容易にあります。
ちょっと古い言葉を例にしますとね、
平安時代から「すごし」って言葉がありまして。
それは火葬場とか、あるいは夜に風が吹き荒れて、
ゾクゾクっと来るような気持ちですね。
横殴りの雨が降る時の空模様も「すごし」。
すごく怖いっていう負の感情なんですが、
プラスにひっくり返って、
「すごくいいね」というふうになるわけですね。
古代の悪い意味が、いつしか、
いい意味に転用される一番わかりやすい例が、
「すごし」つまり「すごい」だと思うんです。
糸井
新聞ではまだ、「すごくいい」は使いませんよね。
飯間
さすがに報道記事では使えないですね。
ただ、「すごくいい」はちょっと俗語っぽいですが、
「ものすごく」ならば、やや文章語寄りになりますね。
小説の地の文なら「すごく」「ものすごく」は使います。
糸井
ああ、使いますか。
飯間
「彼は、ものすごく驚いた」とか、
そういうふうに普通に使えるようになりました。
ただ、やっぱり抵抗がある人はいるかもしれません。
あと、「恐ろしく」だってそうですね。
恐ろしい体験をするの、嫌でしょう。
でも、「あの人は恐ろしく親切な人」って言いますね。
石坂洋次郎の『青い山脈』を読んでいると、
「恐ろしくやさしい婦人」というのが出てくるんです。
どっちなんだろうと思ってね。
糸井
「恐ろしくやさしい婦人」と書いている本人は
「やった!」という思いのある文章かもしれないですね。
その時代の、平凡な景色に対して
ものすごく、風を入れているじゃないですか。
言葉を並べたときに、ひとブロックで見たときの
人間の感じ方に、僕はわりと興味があります。
僕、歌謡曲の歌詞を作るときに、
「赤い 赤い 赤い花が咲いていた
白い雪が積もっていく」と書いたら、
白い雪に赤が移るということを言っていたんです。
飯間
聴いていると、混ざっちゃうから。
糸井
同じエリアの中に混ぜ込むことで、
さっきの「恐ろしくやさしい」っていうのも、
「恐ろしく」が単体で感じさせていることと、
「やさしい」を混ぜたときの見過ごされそうな違和感。
無意識で感じている「恐ろしい」への感性が
微妙に残っているのが、
「やさしい」に色を付けてくれるといいなって思う。
飯間
そうですね、ええ。
糸井
新しい意味が付加されるというよりは、
感情と共に使われているっていうところを、
僕は意識しているんじゃないかな。
(つづきます)
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2017-01-16-MON