早野先生とヴァイオリン 両国国技館でオーケストラとヴァイオリンやチェロを演奏しませんか?初心者大歓迎!

leaf_red_l第2回leaf_red_r
豆ヴァイオリニスト龍五くん、
アメリカへ行く。

早野
当時の松本音楽院には、
生徒が20人くらいいましたね。
この写真は、昭和30年代のはじめのころかな。
羽佐田
ヴァイオリン以外の習い事は、
されていなかったんですか?
早野
なにもしていなかったです。
それどころか、幼稚園にも行かなかったです。
幼稚園には行かず、松本音楽院で
ヴァイオリンを弾いて、
先生に「ダメ!」と叱られながら、
弓でチャンバラをしていました(笑)。
羽佐田
ということは、4歳から6歳までずっと、
ヴァイオリンを弾いていたんですか。
早野
そうですね。
鈴木先生は練習量を重視される方だったので、
日に3回、食後にお稽古です。
朝ごはん食べて弾くんですよ。
お昼ごはん食べるでしょ、弾くんです。
そして晩ごはんを食べて、弾く。
音楽院に通っていたのは週に1度だけですけど、
音楽院でもお家でも、
1日3回はお稽古をしている子ども時代でした。
たのしかったんでしょうね。
いまだと信じられないくらい、
ずっとヴァイオリンを弾いていました。

それで1964年、東京オリンピックの年に、
僕は小学校を卒業して中学に入るのですが、
春休みに、10人の仲間と一緒に、
アメリカへコンサートツアーに行ったんです。
羽佐田
え! アメリカへ。
早野
ヴァイオリンを弾ける子どもが選ばれて、
みんなで一緒に。そのときの写真です。
羽佐田
児童訪米親善使節団ですか。
早野さんはどちらに‥‥。
早野
真ん中の列の、左から2番目ですね。
ほら、笑って手をふっている。
羽佐田
面影があります(笑)。
早野
この当時はまだ、誰でも
パスポートを申請できる状況ではなかったんです。
外貨持ち出し制限という法律があって、
パスポートをつくってもらえず、
大人が行くことさえも大変で。
ましてや子どもで海外に行く子なんて、
なかなか、いなかったんです。

そういう時代に僕らは行くことになったので、
それはそれは、注目されまして。
TVに出たり、新聞記事になったり‥‥。
これは昭和39年2月7日の新聞記事ですね。
羽佐田
「豆ヴァイオリニスト 龍五くん。
すでに百曲こなす」って書いてありますね。
12歳で、百曲も弾けたんですか?
早野
たぶん、そのぐらいの曲数は、
弾けたと思います。
いや、いまは弾けないですよ。
羽佐田
そもそも、アメリカに行くことになったのは、
どのようなきっかけだったんですか?
早野
アメリカのオハイオで、
スズキ・メソードの
第一回(全国大会)コンサートの様子が、
流されたそうなんです。
800人くらいの子どもたちで、
バッハのドッペルコンチェルトを弾いたんですね。
当時は、こんなに大勢の子どもがヴァイオリンを
弾けることがめずらしかったので、
「こんな小さな子どもがバッハ弾いている」と、
アメリカで話題になり、僕らが招待されたんです。
羽佐田
へえ、うわさが海を渡ったんですね。
早野
1960年代のアメリカは、ベトナム戦争前。
当時の写真を見返してあらためて驚くことは、
由緒正しく厳しい時代のアメリカなので、
みんな普通にネクタイをしていて、
TシャツにGパンみたいなラフな格好の人が、
ひとりもいないんです。
これはホームステイ先の家族と晩ごはん前の1枚。
晩ごはんなのに、ネクタイをしているでしょ。
羽佐田
ほんとうですね。
お母さんは真珠のネックレスをされていますね。
早野さんもネクタイとチーフを。
早野
格好は正装だし、
家族全員で食卓に座って、
お祈りしてから食べるんです。
演奏できたことだけではなくて、
渡米して別の土地を見聞きできたことが、
僕のいまの人生に大きな影響を与えていると思います。
羽佐田
具体的にはどういう影響が?
早野
その当時は、ときどき東京に行く程度で、
松本を長く離れるということがありませんでした。
しかも、外国の方と話すチャンスなんて、
滅多にありません。

だから、アメリカではみるもの全てがめずらしくて、
たのしくてしょうがなかったんですね。
日本とアメリカだと国力も違うし、
暮らしのレベルもまったく違う。
たとえば、ホームステイ先の
蛇口をひねったらお湯が出るという生活は、
当時の日本になかったんです。
そして、なぜか、このときに僕は、
いずれなにかしらのかたちで、
この国に戻るんだろうと思っていました。
羽佐田
12歳のときに、そう思ったんですか。
早野
直感で。なんかこう、渡米したことで、
国際的な場で生きていくことについて、
随分考えさせられたんです。
「やっぱり、世界にはいろいろあるんだ」と。
松本で過ごしていた早野少年の世界が、
バーっと開けていったんですね(笑)。

旅程も残っているんですけど、すごい行程なんです。
東京、シアトル、シカゴ、セントルイス、ニューヨーク、
ボストン、またニューヨークに戻り、
フィラデルフィア、クリーブランド、デトロイト、
シカゴ、ウィチタ、ダラス、ヒューストン、アリゾナ。
ロサンゼルス、サンフランシスコ、
そしてホノルルで回って帰ってくるという。
羽佐田
これ、全部行かれたんですか?
早野
そうです。全部の場所でコンサートをしました。
けっこうハードでしたね。
2日に一度は移動して、毎晩コンサートをして、
いろんなお家にホームステイをして。
ニューヨークでは、国連本部で弾きました。
羽佐田
国連本部!
早野
すごい経験だったんですよ。
当時も思っていましたけど、いま振り返っても、
すごいことをやってたんだな、と思います。
そして、この僕らの演奏旅行がきっかけで、
スズキ・メソードは世界中に広がることになりました。

(つづきます。)

2017-10-25 WED