糸井 松田哲夫さんといえば、
「あ、それは松田くんが資料持っててね」とか
「ここに松田くんも来てたんだよ」とか
友達から名前がしょっちゅう出てくる人でした。
だけど、そう言えば、ぼくは松田さんには
ちゃんと会ってない。
松田さんの近くにいる人たちには、
つまり、赤瀬川さんにも伸坊にも、
いっぱい会ってるのに。
松田 そうですね。とくに南くんは、
いろんな人と友達ですよね。
 
1937年生まれの作家、美術家。
 
1947年生まれのイラストレーター、エッセイスト。
おにぎり型の頭がトレードマーク。
糸井 赤瀬川さんや伸坊のこっちにはぼくがいて、
同時期に、向こう側に
松田哲夫という人がいたんです。
きっと縁があったのに
これまでちゃんとお話する機会はなかった。
松田さんがこの長きに渡って
やってきたことのおもしろさを改めて感じて、
お会いしたいなぁと思っていたんですよ。
年を取ると、いろんなものの
整理をつけたくなるのかな(笑)。
松田 いちど『本とコンピュータ』という
雑誌のインタビューで
「ほぼ日」のことが聞きたくて、
糸井さんのところに
うかがったことがありましたよね。
糸井 そうそう! 『本とコンピュータ』。
概念として「インターネット」より
「コンピュータ」と言っていた時期でした。
 
1997年創刊の季刊誌。
発行は大日本印刷株式会社 ICC本部。
コンピュータによってもたらされる出版の未来や、
両者の競合、融合がテーマのひとつ。
4年間の期間限定で創刊されたが、
第1期終了時に、さらに
4年延長されることになった。
松田 『本とコンピュータ』が出て
たしか2年後ぐらいに
急速にインターネットが普及したんですよ。
糸井 そうだよね。
松田 その頃は
「インターネットというものは、ある」
ぐらいの認識しかなくて、
こんなにもみんなが使うようになるとは
思わなかったし
今の「ほぼ日」のようなものができるとは、
誰も考えてなかったです。
糸井 あんなに早い時期に、文科系の人たちが
わざわざ雑誌まで作るということが、
考えてみれば異常なことですよ。
松田さんの、そういう異常で素早い関心が
まずはすごいよなぁ。
とりあえず松田さんは、
いつもちゃんと幹事役をやるでしょ?
松田 そうですね。
糸井 何かをかたちにしてステップにする、ということが
ぼくの友人はみんな──つまり、
赤瀬川さんや伸坊は、まったくできません。
ぜったい、放ったらかしに決まってます。
松田 まあ、そうかもしれない(笑)。
 
糸井 重要なのは「松田くん」とみんなに呼ばれる幹事が
いつも記録して、かたちにしていること。
だから、残っていくし、
続いているわけです。
松田 まあ、ぼくに限らず
それぞれに「役割」というものがあるんですよ。
まず、ぼくは何でも取っておく人間なんです。
南はどんどん捨てちゃうけど。
糸井 伸坊って、何も持ってないですからね。
「いらないから」って、捨てる。
「ああ、面倒くさい」と言って
髪の毛も捨てる。
松田 あの人、ロン毛だったんですよね。
 
糸井 そういうことをずっと横で見て
シャレたところに
いちいち所番地をつける役をしている、
松田哲夫という人が何を考えてんのか(笑)。
松田 まあ、それはつまり、
ぼくは編集者だからなんでしょうね。
糸井 そんな人って世の中にいるんだねぇ。
赤瀬川さんに言わせると、
「松田くんは
 なんでそんなに知っているんだ、っていうぐらい
 学生のときからよくものを知ってる」
松田 いや、そんなことはないですよ。
糸井 たとえば学生運動の論争地図のようなものまで
くわしくわかっていて、
なんでそんなに知っているのかわかんないけど
とにかく知ってる、って。
松田 それは、新左翼のセクトが四分五裂していくさまを
一晩かかって赤瀬川さんに
説明したことがあるからですよ。
糸井 (笑)そうなんですか。
松田 当時の学生は、学生運動をやってても、
中核、革マルがそもそもどうだったか、
こう名乗っているけどどこがどう違うのか、
知らなかったでしょう。
糸井 そんなの、中にいる学生自身は
よくわかってなかったですよ。
松田 だからぼくは大学でも
セクトの人間に教えていたんですよ。
「君が入っているセクトは
 もともとはこういうところから分かれて」
というように、系統図をその都度書いて。
糸井 それは何?
いま路上を見ているように
セクトを見ていたわけ?
松田 いや、どうだろう? ただ単に
「同じ革命的共産主義者同盟に
 いくつも組織があるのはなんでだろう」
「どうも共産同ってのは
 共産党から分かれたらしい」
と気づいて、追っていくと
人脈や大学ごとの流れがわかってきたんです。
ですから、大学名を聞けば、
「あ、どこどこのセクトがいるな」
と、すぐにわかりました。
そういうことを知っても別に
何の役にも立たないんですけどね(笑)。
単純に、当時は学生運動に
興味があったから、と言うしかないです。
糸井 そうかぁ。
松田さんの、編集者としての入口は‥‥
松田 『ガロ』です。
糸井 ですよね。
 
多くの異才作家を輩出した、
青林堂発行の漫画雑誌。
白土三平『カムイ伝』で人気に火がつき、
つげ義春、水木しげる、いしいひさいち、
蝦子能収、やまだ紫などの作品が掲載された。
初代編集長は長井勝一で、その後
南伸坊や渡辺和博も編集長を務めた。
松田 高校時代に『ガロ』を教室で拾ったんです。
おもしろい雑誌だなと思って、
定期的に読みはじめました。
大学に入って新聞部に入ったら、驚いたことに
大学新聞に『ガロ』の広告が載っていたんです。
縁があって、広告を載せるかわりに
雑誌を数冊寄贈してもらっていたらしくて、
「じゃぼく、広告原稿をもらいに行く役をする」
と、志願しました。
『ガロ』が好きだったから。
糸井 それは、1年生のとき?
松田 大学に入ってすぐでした。
そんなきっかけで、
『ガロ』を発行している青林堂に行きました。
編集部の片隅に座っていると、
「水木しげるさんのところに
 原稿を取りに行ってよ」
とか言われて、引き受けたりして。
糸井 え?
‥‥それは学生に頼むことなんだ(笑)。
松田 うん。ぼくは、
「ただそこにいる奴」で、
邪魔だったんです、きっと(笑)。
ただいるのも何なので、
発送する荷物を縛ったり、返品受け取ったりして、
いろいろ手伝うようになりました。
アルバイトというほど役に立つわけではないので、
お金はもらわないんです。
糸井 そうか、ただいる奴だったんだ。
松田 追っかけみたいなもんでしょうね。
糸井 で、ずっと学生のまま、
そこにいるわけじゃないんですよね。
松田 あるきっかけで筑摩書房のアルバイトを
はじめることになりまして。
糸井 つまり、青林堂の手伝いから
筑摩書房のアルバイトになるわけだ。
  (続きます!)
2007-06-20-WED
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