村口和孝さんは、
新しく事業をはじめようという人と
その会社に資金を投じて、
生まれたての企業の成長を後押しする、
独立系ベンチャーキャピタリストです。

そして、大学の経済学部に籍をおいていたころ、
授業よりも熱心にシェイクスピア劇を演出していた
大のシェイクスピア好きでもあります。

そんな村口さんにとって『ヴェニスの商人』は、
数あるシェイクスピア作品のなかでも、
特別な作品のひとつです。なぜなら、
ベンチャーとは何か、投資とは何か、だけでなく、
友情やものごとの本質についても教えてくれるから。

ただ、村口さんの読み方はちょっと変わっています。

なぜなら、かの有名な「人肉裁判」よりも、
「アントーニオの船が戻ってきた」ことに
心を揺り動かされるから。

そんな村口さんと、
2人のシェイクスピア研究者がめぐりあいました。

松岡和子さんと河合祥一郎さん。

ともにシェイクスピア全作品の新訳に挑んでいます。

3人の会話はどんな盛り上がりをみせたのでしょう。

1.
マーチャント」は
商人か投資家か?

村口
今日は専門家のお二人にお会いできてうれしいです。

ずっと『ヴェニスの商人』について思ってきたことが、
間違ってないか、聞いてみたかったんです。
松岡
シェイクスピアに関して、どう読んでも、
「間違ってる」ってことはないんですよ。
村口
ありがとうございます。

まず、タイトルから疑問なんですけど、
『ヴェニスの商人』の原題は
“The Merchant of Venice”。

商人って、もはや死語ですよね。

ぼくは『ヴェニスの投資家』と
訳した方がいいと思うんですよ。
松岡
なるほど。

たしかに原題の言葉で言えば
そうかもしれませんね。

この文脈の中だとアントーニオは投資家です。

でも、投資家だと
「舞台のことば」にならないでしょう(笑)。

それから、シェイクスピアが他の作品も通して、
マーチャントという言葉を
どう使っているかをみると、
別の見方もできますよ。

シェイクスピアは
ジェントルマンに対する言葉として
マーチャントを使ってもいるんです。

紳士ではない、卑しいものとして。
村口
あぁ、なるほど。
松岡
『ロミオとジュリエット』で、
乳母がおつかいに行くシーンがある。

そこでロミオに向かって
マキューシオのことを
saucy merchant(ずうずうしい商人)だと言うんですよ。

商人でも何でもないのに。
村口
なるほどねぇ。

マーチャントの卑しい部分と、
その裏側にある深い洞察力のような深みの両方を
マーチャントと言っているのかもしれませんね、
シェイクスピアは。

でも日経新聞に「商人」という言葉は出てこないし、
「同級生が商人をやっている」とは言いませんよね。
松岡
たしかにね。
河合
死語ですね。

新しい階級同士の対決

村口
考えてみると、
投資家とか投資銀行とかいう言葉も、
両方の意味をもっています。

どうやって投資をするか考えるとき、
「深いなぁ」と思える
本質的な投資をする投資家がいれば、
スペキュラティブ(投機的な)投資をする人もいる。

あるいは見かけ本質で中身が騙し的な投資とか、
反対に、見かけ騙しに近くて本質的な投資とか‥‥。
河合
まさにシェイクスピア的ですね。

外見と内実の、一致とズレ。
松岡
いま『ヘンリー五世』を訳しているんですけど、
さっき読んだ資料に中世、
1300年代のイギリスの
新しい職業の話がでてくるんです。

その頃の風景は森林と田園風景だったけれど、
都市ができて、職業にも変化がでてきて、
商売(トレード)をする人がでてきた。

新しい階級として商人がでてきたわけです。

大金をもっている人たちです。

もうひとつ新しく出てきたのが法律家。

『ヴェニスの商人』は、
新しい階級である商人と法律家との
対決だとも読めますね。
村口
そこで、気になるのが、
「証文、ボンド(bond)」なんですよ!
『ヴェニスの商人』でシャイロックが
振りかざすのが証文ですが、
私は仕事で証文なんて書いたことがない。

契約書とか証書とか金消契約(金銭消費貸借契約)
というのはありますよね。

ボンドは、いまでいえば社債とか債権。

とにかく、シャイロックは紙に書かれた
契約をボンドと呼んでいます。

ここに『ヴェニスの商人』のテーマのひとつ、
本質と形式があると思うんです。
河合
そうですね。
村口
大学の経済学部で教えている
現代ポートフォリオ理論では、
経済の実態を見る
本質的なファンダメンタルアナリシスと
データを見て判断する形式主義的な
テクニカルアナリシスの両方が、
投資の世界には必要だと教えています。

『ヴェニスの商人』も、
この本質と形式の相克だと思うんです。
河合
ええ。
村口
形式と本質の対比で読むと、
ポーシャが夫を決めるときの「箱選び」も、
そう見えるんです。

(*あらすじを参照してください)
茶番といわれるけれど、そうではなくて
形式を象徴していますよね。
河合
もちろん、茶番じゃなくて、
シェイクスピアは真剣に書いています。

形式の中に心があるという話ですよ。

一見、箱選びとか、金・銀・鉛というのは、
わかりやすい「印」のようだけれど、
選ばせることによって父親は娘にメッセージを送っている。

娘のポーシャも父親の心がわかるからこそ、
形式に従っている。

心がつながる瞬間があるから、そこに意味がある。

(つづきます)

2018-03-02-FRI