2018年1月、
ほぼ日の学校が始動しました。

これからいったい、
どういう学校に育っていくのか。

そのプロセスの出来事や、
学校にこめる思いなどを、
学校長・河野通和が
綴っていきます。

ほぼ日の学校長

河野通和(こうの・みちかず)

1953年、岡山市生まれ。編集者。

東京大学文学部ロシア語ロシア文学科卒業。

1978年〜2008年、中央公論社および中央公論新社にて
雑誌『婦人公論』『中央公論』編集長など歴任。

2009年、日本ビジネスプレス特別編集顧問に就任。

2010年〜2017年、新潮社にて『考える人』編集長を務める。

2017年4月に株式会社ほぼ日入社。

ほぼ日の学校長だよりNo.99

『象徴のうた』を読んで

 「万葉集講座」の講師を務めてくださった永田和宏さんが『象徴のうた』(文藝春秋)という本を出されました。とてもおもしろい本です。

nagata

 歌人であり、長年、宮中「歌会始」の選者を務めてきた著者が、明仁(あきひと)天皇、美智子皇后の御製(ぎょせい)、御歌(みうた)を通して平成の時代を振り返るというものです。

<平成の天皇陛下は、即位したときから<象徴>であったはじめての天皇である。>

 本書は、この1行から始まっています。

 「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって」と、日本国憲法は天皇について規定していますが、では<象徴>とは何か? どうすれば<象徴>たりうるのか? 憲法の条文はいっさい何も語っていない、と著者は続けます。

<平成の天皇は、その即位のときから、「象徴とは何か」、その誰も答えを持たない難問に正面から向き合い、自らの問題として一貫して考えて来られたのだと思う。それが平成という時代であり、平成の天皇の歩まれた道であった。>

socho

 この見方に、私も同意します。明仁天皇は、即位以来30年をかけて、象徴天皇のあり方を手探りで模索し、試行錯誤しながら、ひとつの「かたち」を確立した最初の天皇だったと考えます。

 美智子さまと結婚し、皇太子夫妻になって30年。55歳で即位され、天皇皇后として30年。二人相携え、平成の天皇皇后として何をなすべきかを熟慮し、強い意志をもって、着実に「象徴」の道を歩んでこられたと考えます。

photobook

 平成の時代を回顧する各種の出版物がありますが、永田さんの著書がユニークであるのは、いうまでもなく、両陛下の詠まれた歌をつぶさに読み解くことによって、詠み手の心に寄り添い、その歌に託されたもっとも深い思いを理解し、共有しようとしているからです。

 即位以来、“国民の天皇”として「国民と共にある、国民に寄り添う」ことに第一義を見出してきたご夫妻の、歌でこそ表現できる(歌の中にこそ籠められる)思いをしっかりと受け止め、読者に伝えようという試みだからです。

heisei

 本年1月16日、平成最後の「歌会始の儀」に、選者である永田さんのお誘いで「陪聴者」としてお招きいただきました。今年のお題は「光」でした。天皇陛下の御製は、次の一首です。

 贈られしひまはりの種は生え揃ひ葉を広げゆく初夏の光に

 阪神・淡路大震災の「はるかのひまわり」を詠まれたものです。あの震災で、当時小学六年生だった加藤はるかさんが亡くなり、翌年、彼女の自宅跡地に生えた十数本のひまわりが花を咲かせました。種は全国に配られ、「復興のシンボル」となり、震災十周年の追悼式典で両陛下にも贈られました。両陛下はそれを御所の庭に蒔き、大切に育ててこられたといいます。

inori

 震災のことを、その犠牲になった人々のことを、その犠牲者の記憶を抱えて生きている遺族のことを、決して「忘れない」というメッセージが籠められています。心はいつも、いつまでも被災者、犠牲者とともにある。両陛下の「寄り添う」「忘れない」という大切な思いを伝えて感動的な歌です。

 皇后陛下は次の一首を詠まれました。

 今しばし生きなむと思ふ寂光に園(その)の薔薇(さうび)のみな美しく 

 著者はこの御歌を最初に目にした時、「なんと切ない歌だろうか」と思ったそうです。しかし、「今しばし」を「生きなむと思ふ」と言い切ったところに、美智子さまの決意を読み取ります。

<両陛下は昭和三十四(一九五九)年、皇太子と皇太子妃としてお二人の生活をスタートさせて以来、六十年にわたって、一貫して公人としての生活を強いられてきたことになる。

 天皇皇后という誰にも代替不可能な地位を離れ、公務を解かれ、ようやく自分たちだけの時間を持てるようになったとき、ふと気づくと、このあと自分たちに残された時間はどれほどあるのだろうかという思いがよぎったのであろうか。「寂光」という強い言葉が読者をそのような思いに誘う。

 私が切ないと感じたのは、そんなお二人だけの生活を、それでも精一杯「生きなむと思ふ」と言いきられた美智子さまの決意である。これまでにできなかったこと、陛下にしてさしあげられなかったことまで、これからの二人の生活のなかで思う存分実現したいという願いであろう。自分たちだけの生活を楽しみたいという思いも当然あろう。はかない光のなかに美しく咲く「園の薔薇」には、自分たちのこれからを託すような思いも籠もっているだろうか。>

 この平成最後の歌会始に、著者のお声がけで立ち会うことができたのは、望外の喜び以外の何ものでもありません。

michi

 平成の30年間は、ほんとうに大規模な自然災害が続きました。即位礼から5日後に発生した長崎県・雲仙普賢岳の噴火、北海道南西沖地震、阪神・淡路大震災、三宅島の噴火、新潟中越地震、東日本大震災、広島土砂災害から熊本地震まで、幾多の自然災害に見舞われました。その都度、被災地には両陛下の姿がありました。また、その後も繰り返し、復興の状況を確かめに現地を訪問されました。その度に歌が詠まれました。

30nen

 六年(むつとせ)の難(かた)きに耐へて人々の築きたる街みどり豊けし 天皇(平成13年、阪神・淡路大震災の被災地再訪にて)

 今ひとたび立ちあがりゆく村むらよ失(う)せたるものの面影の上(へ)に 皇后(平成24年、東日本大震災の被災地再訪にて)

 被災地の訪問とともに、両陛下が大切にしてこられたのは、戦争犠牲者を悼むという行為です。まだ皇太子だった明仁天皇が、「日本人として忘れてはならない四つの日」として、終戦記念日の8月15日、広島、長崎の原爆投下の日である8月6日と9日、そして沖縄戦終結の日である6月23日を挙げられました。その日は必ず、両陛下で静かに黙祷を捧げてこられたと聞きます。

tabi

 即位以来、8月15日の「戦没者を追悼し平和を祈念する日」のお言葉を読まれ、終戦何十年という節目の年には、両陛下で戦跡を訪れ、慰霊の旅を続けてこられました。沖縄をはじめ、サイパン島、ペリリュー島、フィリピンなど、天皇自らの強い希望でかつての戦闘の跡地を訪ね、供花をされ、慰霊の祈りを捧げてこられました。ここでも歌が詠まれました。

 サイパン島訪問(2005年)の際に、美智子さまが詠まれた歌は、忘れられない一首です。

 いまはとて島果ての崖踏みけりしをみなの足裏(あうら)思へばかなし 

<サイパン島の悲劇は、追い詰められた果てに、多くの日本人が崖から身を投じたことでもあった。両陛下は「中部太平洋戦没者の碑」に拝礼の後、その背後の高さ百メートルを超える絶壁、スーサイド・クリフの上まで登って深く黙禱をされ、さらに北端のバンザイ・クリフでも黙禱をされた。

 美智子さまの御歌は、そこで身を投げた女性たちの「足裏」を思われたのである。足裏には、この世との最後の接点である崖が、切なくもはっきりと感じられていただろう。その崖を踏み蹴ったとき、女性の身体は宙に浮き、この世との接点をなくしたのである。「をみなの足裏」を心に思い描くことは、自ら断崖に身を投げようとする女性への心寄せがなければ、決してできないはずである。>

 私が雑誌編集者になって1年後でした。「サイパン高女(サイパン高等女学校・昭和10年創立)」の同窓会が、戦後初めて現地サイパンで開かれたというニュースを知りました。

 その同窓会に参加したサイパン高女8回生の女性になんとか連絡を取ることができ、お話を伺いました。彼女は、昭和19年6月の空襲以来、一家で島の中を逃げまわり、最後は、たどりついたスーサイド・クリフ近くのジャングルの岩穴に隠れていたところ、9月18日(と記憶している)、米兵に保護され、収容所に送られます。

 その時、彼女は「自分が名前以外の文字をすべて忘れていること」に気づき、「何か書かなくては」と、「悪夢の数ヵ月の記録」をノートに綴ります。

 取材では、その記録をもとに“逃避行”の様子を詳しく聞きました。同窓会ツアー(1979年5月12日〜16日)で感じたこと、こみ上げたさまざまな思いも伺いました。飛行機が島に近づき、銀翼の下にサイパンの海岸線が見えた時、「本当に戻ってきたんだ」と心の中で叫んだそうです。

<私が育った島、幾度となく夢に見、うなされ、そして時には泣きながら思慕した島。私の父と母、そして多くの日本人が米軍によって殺された島。

 今、そのサイパンが私の下にありました。>

 「サイパン高女 青春玉砕記」というタイトルで、7ページの手記にまとめました(「婦人公論」1979年9月号)。美智子さまの先の御歌を知った時、この手記のことが蘇りました。

jijucho

 天皇皇后両陛下はその10年後、戦後70年の節目にあたる2015年に、やはり太平洋戦争の激戦の地であるペリリュー島に慰霊の旅をされます。美智子さまは、次の一首を詠んでおられます。

逝(ゆ)きし人の御霊(みたま)かと見つむパラオなる海上を飛ぶ白きアジサシ

<平成二十七年四月九日、天皇皇后両陛下のパラオでの二日目の朝は、巡視船「あきつしま」で明けた。いよいよペリリュー島に渡り、戦没者の碑に供花をされる日である。

 同年の皇后誕生日の文書回答では「かつてサイパン島のスーサイド・クリフに立った時、三羽のアジサシがすぐ目の前の海上をゆっくりと渡る姿に息をのんだことでしたが、このたびも海上保安庁の船、『あきつしま』からヘリコプターでペリリュー島に向かう途中、眼下に、その時と同じ美しい鳥の姿を認め、亡くなった方々の御霊に接するようで胸が一杯になりました」と述べられたが、掲出の御歌はその折の一首である。>

 サイパン島慰霊の際には、「をみなの足裏」に思いを寄せて歌を詠まれた美智子さまが、「そのスーサイド・クリフでも、パラオの海でも同じようにアジサシが目の前を舞っている姿に、偶然とは思えない何かを感じ取られたのであろう」と、永田さんは述べています。

 この個所を読んで、サイパン高女の手記に改めて目を通しました。彼女がスーサイド・クリフに立つ最後の場面です。

<かけがえのない父と母、そして多くの友人や知人を失ってから、三十四年。何度も夢に見、思い出し、涙を禁じ得なかったスーサイドクリフ。それが、今私の目の前にあるのです。>

 そこから彼女は、両親の亡くなったジャングルに向い、父母の終焉の地とおぼしき場所に2枚の戒名と写経した般若心経を埋め、手をかたく合わせます。34年間の「親不孝を詫び」、いまの幸せな、平穏な暮らしを報告します。そして、ジャングルを出、スーサイド・クリフを後にしようとした時です。

<帰途もう一度スーサイドクリフを振り返ると、そこここにある岩穴から、当時私たちがシロッピンと呼んでいた、カモメによく似た白い鳥が、黒い岩肌の前を高い声で鳴きながら飛んでゆきました。それは、あたかも戦前の平和なサイパンが、再び目の前に現れたかのようでした。そして、海はゆったりと静かに、透明な陽光を浴び、きらきらと美しく輝いているのでした。>

 シロッピンはアジサシのことだと考えて、まず間違いないでしょう。「偶然とは思えない何か」に、私も強く反応していました。

 さて、ここまで書いて、まだまだ感銘を受けた個所がたくさんあることに気づきますが、最後にひとつ、天皇皇后両陛下の相聞歌について触れておきたいと思います。

 永田さんは、平成30年12月20日、退位を控えた天皇として、最後の誕生日会見に臨んだ明仁天皇が、美智子さまへの感謝の思いを「率直に、熱く語られた言葉」に、強く胸をうたれます。

<私は、これほどまでに一人の男性が、その伴侶への思いを率直に語り得るものかと、改めて感動したのを覚えている。私は、天皇という存在は、その人間性をも含めて<象徴>だと考えたいと思う者だが、まことにこのような、その妻への率直な言葉を持っておられる方を<象徴>として持つことのできる喜びを強く感じたのであった。

 そのようなお二人が、互いを思う心を相聞歌として歌にお詠みになるのは当然とも言えよう。私は歴代の皇室の歴史のなかで、これほど互いに相聞歌を交しあった天皇皇后は、これまでになかったのではないかと思っている。>

ryouri

 昭和33年、美智子さまとの婚約が内定した年に、皇太子殿下当時の明仁天皇が詠まれた一首。

 語らひを重ねゆきつつ気がつきぬわれのこころに開きたる窓

 結婚50年の折に、美智子さまが詠まれた一首。

 君とゆく道の果たての遠白(とほしろ)く夕暮れてなほ光あるらし

<歌はこのような心の奥深くにある思いを、さりげなく表現してくれる詩型である。そこにこそ、自らが歌を詠む理由も、人の歌を心をこめて読む理由もあるのだ。>

nagata-kohno tatoeba

 本書は、まさにこうして書かれた一冊です。

2019年10月10日

ほぼ日の学校長

ほぼ日の学校オンライン・クラスに、万葉集講座第4回授業が公開されました。講師は本日の「学校長だより」でもご紹介している細胞生物学者であり歌人である永田和宏さんです。