福島第一原子力発電所へ。

HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN

震災から5年が経とうとするある日、
1通のメールが届きました。
ちいさな縁はつながって、
福島第一原子力発電所のなかを
視察できることになりました。
約3時間の視察。
そこで、見たこと、感じたこと。
すこし長いレポートになりました。
担当は、ほぼ日の永田です。

いま、福島第一原子力発電所では1日に7千人が働いている。

いま、福島第一原子力発電所では1日に7千人が働いている。

福島第一原子力発電所がどういう存在であるかは
見る人の立場や考え方によって、
さまざまに変わってくるのだと思う。

事故のあった原子炉として語られることもあるし、
ある思想の象徴としてとらえる人もいる。
そこに好きとか嫌いとかの感情や、
是か非かみたいな主張が交ざると、
さらに複雑な見え方をすることになる。

福島第一原子力発電所は、いわば多面的な存在で、
だからこそ、それについてなにか書くときは、
なんとなく前置きや注釈を添えなければならず、
そこが、すこし、ややこしい。

昨年の11月、糸井重里と、
原子物理学者の早野龍五さんとともに
事故から5年後の福島第一原子力発電所を視察した。
そのときぼくがいちばん強く感じたのは、
そこが「現場」である、ということだった。
そういう一面は、実際に行かなければわからなかった。

福島第一原子力発電所は「現場」である。
2011年3月11日から今日にいたるまで、
そして、たぶん、何十年も先の未来まで、
福島第一原子力発電所は
「現場」であり続けるのだと思う。

いま、福島第一原子力発電所では、
1日に7千人が働いている。
誰も立ち入れない死の場所ではないし、
あの日から時間が止まったまま、
というような風景でもない。

7千人が働く「現場」は、思った以上に活気があった。
もちろん、働く人たちは防護服やマスクといった
しかるべき装備を身につけるし、
出入りの際には放射線量や装備品に関して
徹底的なチェックを受けるという厳しさがある。
出入り口付近にずらりとならんだ個人の線量計は
そこがふつうの場所ではない
という事実をぼくらに突きつける。

けれども、マスクを外した人どうしが
通路ですれ違うときには
「お疲れさまでーす」と声をかけ合うし、
休憩スペースにはくつろいでいる人たちがいる。
壁には前向きな標語が掲げられているし、
最近できたという食堂には
ひと月分の献立が貼り出されている。

ふつうではない面も多いけれど、
人が働くふつうの「現場」としての面も
当たり前に持ち合わせている。
とくに、ここ一年くらいのあいだに、
そういった環境が整ってきたということだった。

象徴的なのは、自動販売機だ。

なんの変哲もない、ふつうの自動販売機だ。
しかし、福島第一原子力発電所には、
最近までずっと存在しなかった。
7千人が働く「現場」なのに。

自動販売機が存在するためには、
スペースや電源だけでなく、
管理の仕組みが成り立っていなければならない。
もっと具体的にいうと、
定期的に飲料を補充する人と、
そこから出るゴミを回収する人がいなければならない。

震災から5年が過ぎ、
浜通りの放射線量はずいぶん下がった。
常磐自動車道は開通し、
国道6号線も通れるようになった。
しかし、福島第一原子力発電所のなかの
大型休憩所に置く自動販売機に
飲み物を補充する人や、
そのゴミを日常的に回収する人を募るのは、
それほど簡単なことではないのだ。

いま、福島第一原子力発電所には自動販売機がある。
近くに給食センターができて
毎日違ったメニューが配膳され、
宿泊のためのカプセル型簡易ベッドもできた。

そういうことは、テレビのニュースを見ているだけでは
なかなか伝わってこない。
福島第一原子力発電所で1日7千人が働いていて、
給食のメニューには定食のほかに丼やカレーがあって、
最近、自動販売機が設置されたというような一面は、
なかなか報道されない。
もちろん、それはそれで仕方のないことだとも思う。

福島第一原子力発電所を実際に視察して、
はじめてわかることがたくさんあった。
みんなが訪れるべきだとは思わないけれど、
少なくとも、自分は来ることができてよかったと思った。
そういう意味では、この場所に限らず、
「被災地とのかかわり」そのものによく似ている。
いろいろ考えているとなにもできなくなるけれど、
実際に動くと、わかることがたくさんある。

5年前のあの日以降、
ぼくはそういう思いを何度も味わってきたように思う。

今回、ぼくらが福島第一原子力発電所を
訪れるきっかけになったのは、
ほぼ日刊イトイ新聞に送られてきた
1通のメールだった。

送ってくださったのは、
福島第一原子力発電所で安全管理を担当している
東京電力の齋藤寿輝さんだ。
しかし、齋藤さんは、完全に「東京電力の人」として
「ほぼ日」にコンタクトを取ってきたわけではない。
届いたメールは会社のアドレスからではなく
齋藤さんの個人アドレスから送られたもので、
内容的にも、東京電力の人としての意見と、
個人の思いが、ないまぜになっていた。

メールの中で、齋藤さんは、
いま福島第一原子力発電所で作業することの
難しさについて書いていた。
「なにを目標に、どうがんばればいいのだろう?」
メールには、そういった迷いのようなことが書かれていた。
「誰かに理解してほしいということかもしれません」とも。

のちに、齋藤さんは、このメールについて
「仮設の寮に帰って、ひとりになったとき、
 さまざまな思いが頭を駆け巡り、
 いろいろなことが重なって
 気づいたときにはメールを送っていた」と、
若干の反省をこめて回想されていた。

しかし、そのように、
ビジネス的な意図とはまったく違う次元で、
「矢も楯もたまらず」書かれた文面だからこそ、
そのメールには説得力があった。
迷いや悩みを表しつつも、
当事者しか書けない、
たしかな強さのようなものがあった。

その日のうちに糸井重里は返事を書いた。
糸井から返事が来たことで齋藤さんは、
公私が混同した中途半端なメールを書いてしまったことを、
あらためて反省されたようだったけれど、
糸井はそのあたりをまったく気にせず、
「会社の看板をまったく気にせず、
 『わたし』として、一度会いませんか?」と書いた。

そのようにしてやり取りははじまり、
去年の夏頃に齋藤さんは
東京のぼくらのオフィスにやってきて、
自由に、長く、話をした。
福島第一原子力発電所に勤める人というより、
ひとりの社会人として、
働くことの意義や、震災や、生き甲斐などについて、
とくに録音も撮影もせず、自由におしゃべりをした。

福島第一原子力発電所はいろんな面を持っている。
齋藤さんにとって、
福島第一原子力発電所は「職場」である。

齋藤さんは1995年、東京電力に入社した。
入社してからずっと原子力関係の部署に勤務している。
2011年3月11日、未曾有の揺れが東日本を襲ったとき、
齋藤さんはまさに福島第一原子力発電所に勤務中だった。

そこからの数日間は、
ほんとうに命がけの格闘だったという。

齋藤さんは事故の直後から、
のちに「吉田調書」で広く名前を知られることになる
吉田昌郎前所長とともに
現場にとどまり続け、必死で作業にあたった。
(そのあたりのことは門田隆将さんの
 『死の淵を見た男』という本に詳しい)
その作業は、切迫の度合いははるかに違うとはいえ、
5年前からいままで途切れず続いているともいえる。

当時現場に居合わせた人たちも、
人事異動によって徐々に部署を移動し、
5年経ったいま、福島第一原子力発電所のなかで
あの日の現場を知っている人たちは
ずいぶん減ってきているという。

震災の数年前、齋藤さんは
福島第一原子力発電所のある大熊町に新居を構えた。
大熊町はそのほぼ全域が
いまも帰還困難区域に指定されている。
まだ新しいその家には震災以来帰ることができず、
奥さんと子どもたちは会津若松市の仮設住宅に移住。
齋藤さん自身は新しく建てられた会社の寮に
単身赴任しているそうだ。

いつ終わるともわからない作業を毎日続け、
寮の自室に戻り、ひとり、悶々と考えていると、
さまざまな思いが頭を巡り、
齋藤さんは、つい、メールを書いた。
それがぼくらに届き、思いがけず、
福島第一原子力発電所とのつながりをつくった。

視察にあたって、
糸井は物理学者の早野龍五さんに声をかけた。

早野さんは福島第一原子力発電所の事故直後から
放射線量など各種のデータを分析し、
いち早くツイッターで広める活動をした人だ。
震災後の混乱のなか、冷静にデータのみを報告し、
多くの人が早野さんのツイートを判断の拠り所にした。
糸井もそのひとりである。
事態が一定の落ち着きを見せたあと、
早野さんは内部被ばくを心配する福島の人たちのために、
給食の陰膳検査を提案して自ら実行し、
問題がないことを実証した。
また、赤ちゃんの被ばくを心配するお母さんのために
「ベビースキャン」という
赤ちゃんや幼児の内部被ばくを測定する
特別なホールボディカウンターを開発した。

ツイッターを通じて知り合った早野さんと糸井は、
本来、まったく違う分野の人であるにもかかわらず、
さまざまな価値観、そして「好み」などが重なり、
震災後の福島をテーマにしたいくつかの重要な仕事を
ふたりでこなすことになる。
その集大成が、福島と放射線をめぐることについて
「すくなくともこれだけは言える」
ということを慎重に語り合った
『知ろうとすること。』という本である。

たぶん、福島第一原子力発電所の事故がなければ、
ふたりは接点をもたなかった。
今回の視察にあたり、
糸井が早野さんに声をかけたことに
どうしてもそうでなければならない理由や
具体的な仕事などはなかったが、
ふたりが福島第一原子力発電所を訪れるのは
たいへん必然的なことであるように思った。

齋藤さんからはじめてメールが届いたのが
2015年7月28日のことだった。
早野さんに声をかけて、日程を調整し、
福島第一原子力発電所を訪れるのは
11月5日と決まった。
視察の当日は、幸い、とてもよく晴れていた。

福島第一原子力発電所に入るまえに、
ぼくらは発電所から20キロ南にある
「Jヴィレッジ」を訪れた。
ここで、今回の視察の概要など、
さまざまな説明を受けることになっている。

Jヴィレッジは本来、サッカーをメインとした
スポーツのトレーニング施設である。
しかし、福島第一原子力発電所の事故後は、
トレーニング施設としては閉鎖し、
事故の対応の重要な拠点となっている。

福島第一原子力発電所の事故は
取りかえしのつかない大きな不幸だけれど、
その大きな不幸のなかにも、
「不幸中の幸い」が3つある。
そういう言い方が不謹慎であれば、
「最悪の事態に至らずにすんだ3つの偶然がある」
と言い直してもいい。

ひとつは、福島第一原子力発電所が、
「発電所としてはとても広かった」ということだ。
それで、一時的なものや、正式なものも含めて、
たくさんのタンクや廃棄物を置くことができた。

ぼくはこの話を聞いて、とても興味深く思った。
「広かったのでいろいろ助かった」と聞いて、
すごく正直にいえば、
へぇ、そうなんだ、おもしろい、と思った。
しかし、そういう表現は、ふつうはできない。
そして、「福島第一原子力発電所が広かった」という話も、
「原発の事故」という最悪の事態を伝える報道のなかでは、
バランスとして紛れ込ませづらいことだから、
とくにニュースになることもない。
でも、そういうエピソードは、
おもしろく語られたって別にかまわないのだと思う。

「最悪の事態に至らずにすんだ3つの偶然」に戻ると、
そのふたつ目は、
福島第一原子力発電所に「免震重要棟」、
いわゆる「免震棟」があったことである。

「免震重要棟(免震棟)」というのは、
「地震に備えた免震構造を持つ建物」、
ようするに揺れに強い建物のことだ。
福島第一原子力発電所にまつわるニュースでは、
この「免震棟」ということばが
事故の直後から頻繁に登場していた。

東日本大震災による物理的な揺れによって、
福島第一原子力発電所の事務棟は大きな損害を受けたが、
揺れに強い免震棟は無事だった。
それで、免震棟は事故後の対応の本部として活躍した。
免震棟がなければ、現場の混乱はさらに深まり、
きっと、対応に大きな遅れが生じたことだろう。

ちなみにこの免震棟という施設については、
その設立の背景にさらなる偶然を見ることができる。

福島第一原子力発電所の免震棟ができたのは、
じつに震災の前年、2010年7月のことなのである。
2007年、新潟県中越沖地震が発生し、
柏崎刈羽原子力発電所が緊急停止した。
いくつかの建物が被災し、指揮系統が混乱した。
それによって免震構造を持つ建物の重要性が指摘され、
福島第一原子力発電所にも免震棟が建てられた。
新潟の地震があってよかったとは言えないし、
そもそも、免震棟がなかったという危うさはある。

しかし、とにかく、2011年3月11日に、
福島第一原子力発電所に免震棟があってよかったと思う。
なお、福島第一原子力発電所の免震棟には
現在も緊急時対策室が置かれている。

そして、「3つの偶然」の最後が、
ぼくらが視察の前に説明を受けたトレーニング施設、
「Jヴィレッジ」の存在である。

Jヴィレッジは述べたように
福島第一原子力発電所から20キロ離れた場所にあり、
十分な広さもあったため、
人員の駐留や物資のプールなど、
事故対応におけるとても重要な拠点となった。

スポーツのトレーニング施設だからこそ、
汎用性の高い広いスペースがあった。
そして、ありがたかった偶然は、
福島第一原子力発電所からの距離である。
事故の直後、警戒区域が設けられていたとき、
Jヴィレッジはぎりぎりその境界線の外側にあった。
この施設がもうすこし近い場所にあったら
復旧活動の拠点にならなかった。
逆に、遠すぎたら最前線の拠点としては
機能しづらかっただろう。

そのJヴィレッジで、ぼくらは、
この5年間に起こったことや現状についての説明を受けた。
説明してくださったのは、
東京電力の石崎芳行副社長である。

石崎副社長は、賠償・除染など復興関連業務を統括する
「福島復興本社」の代表も務めている。

お話のなかで印象的だったのは、
福島第一原子力発電所の廃炉作業に従事する
1日7千人の作業員のうち、
半分の方が福島県民の方であるということだ。
地理的なことを考えれば自然なのかもしれないが、
福島の人たちが背負わざるを得なかったものの重さを
またひとつ新たに知ったような気がした。

「福島のみなさんにたいへんなご迷惑をおかけしながら、
 厳しい廃炉作業を福島のみなさんに支えられている」
という石崎副社長のことばには、苦しさが感じられた。

その話を聞いて、
須賀川市にある公立岩瀬病院を取材したとき、
病院や市役所の職員のカウンセリングをしている方が
実感として伝えてくださったあのことばを思い出した。

──福島の人は我慢ができすぎます。

そんな福島の人たちに対して、
東京電力の社員は、さまざまな活動を通して
できる限りのお手伝いをしようとしているそうだ。
石崎副社長はこう続ける。

「5年近く帰宅できなかった方のご自宅は
 かなり傷んでおりますので、
 社員をできる限り動員して、
 家の片づけ、草刈り、お墓の清掃、冬は雪かきなど、
 いろんな活動をさせていただいています。
 東京電力は関東中心に活動をしていますので、
 関東で働いている社員は、
 このJヴィレッジに二泊、三泊と宿泊してもらって、
 ここから福島のあちこちへ行って、
 作業をしてもらっています」

東京電力の社員数は約3万5千人だが、
ひとりに何回も来てもらって作業してもらうことにより、
福島で汗かき活動をしている人の数は、
のべ20万人を超えたそうだ。

だからなにかが許されるというわけではないだろう。
しかし、こういった活動も、報じられていいと思うし、
すくなくともぼくは知ってよかったと思った。
石崎副社長は言う。

「最初のうち、社員は
 東京電力の制服を着て行くことを嫌がりました。
 それでも、私は制服を着て活動するように言ってます。
 私もいつも制服を着ています。
 なにを言われても、東電の社員であることを
 きちんと名乗って誠意を尽くす、
 それしかないんだということで、
 社員に発破をかけているところです。
 『東電は許せない』とおっしゃる住民の方でも、
 一人ひとりの社員が家の片づけを手伝うことについては、
 お礼の言葉をかけてくださったり、
 飲み物を出してくださったりします。
 すこしずつではありますが、
 住民のみなさんから笑顔のあいさつを
 いただけるようになったとも聞いています。
 これからも、賠償、除染といったことのほかに、
 こういう活動を続けていかなければ
 いけないと思っています」

東京電力で働く人たち、福島県に住む人たち、
そして東京から取材にやってきた人たち。
属性で大きくくくってなにか論じることもできる。
けれども、一人ひとりは、一人ひとりだ。
それぞれに、常識的に振る舞い、礼儀を重んじ、
できれば穏やかに暮らしたいと思っている、一人ひとりだ。
思うことや、主義や、許せないことの度合いも、
一人ひとり違う。

それはもう、当たり前の話である。
しかし、人を大きなかたまりにして
属性で語る話ばかりに接していると、
その当たり前のことを、ぼくらは簡単に忘れてしまう。

その後、視察に関する注意事項の説明があり、
身分証明書を提示しての本人確認などをすませて、
ぼくらはマイクロバスに乗り込んだ。

国道6号線を通って
福島第一原子力発電所へ向かう。

2011年の夏、
ぼくは動物愛護団体ランコントレ・ミグノンの
友森玲子さんの活動を手伝って、
福島第一原子力発電所の20キロ圏内、
当時は「警戒区域」と呼ばれていた場所に何度か入った。
国道6号線を福島第一原子力発電所へ向かって走るのも、
はじめてのことではない。
(たしか福島第一原子力発電所を車内から見たときは、
 熱射病になって後部座席で横になっていた)

よくつかっていた国道6号線だから、
当時との差がはっきりとわかって感慨深かった。

あのころは、車内でも防護服を着ていた。
警戒区域に入る検問のところで装備をチェックされるから、
検問にいちばん近い道の駅の駐車場で
防護服を着込むのがふつうだった。
いま、Jヴィレッジから出発したぼくらは
当時の警戒区域内を進んでいる。
しかし、装備はいつもの服装のままである。

バスが検問に差し掛かる。
2011年のときの
「警戒区域の境界に設けられた検問」ではなく、
「福島第一原子力発電所へ入るための検問」である。

出入り口やゲートに関する箇所は、
安全の対策上、写真を撮ることができない。

いくつかの照会とチェックを無事にパスし、
敷地内にある建物へ。
そこであらためて持ち込む機材などをチェック。
そのあたりの管理は徹底している。

構内の視察に備えて装備品を身につけることになった。
しかし、予想外にそれは簡易なものだった。
身分証明や機材のチェックが厳しかったから、
こんな軽装備でいいのか、と拍子抜けした。

今回の視察ではバスから降りる予定がない。
しかし、それにしたって、
メルトダウンを起こした原子炉のそばに行くわけで、
2011年の自分の経験と照らし合わせても、
当然、防護服とマスクくらいは
身につけるのだろうと思っていた。

けれども、装備は、ふつうのマスク
(風邪や花粉症の対策として
 みんながつけるふつうのマスク)と
手袋、そして靴カバーだけだった。
その靴カバーにしても、
原子炉に近づくからというわけではなく、
建物からバスに移るときに
外の敷地を一瞬踏むために義務づけられているようだった。

さらに言うと、視察が終わるころ、
放射線についてはだいたいのことを知っている早野さんが、
東京電力の方に、こんなふうに言ったからびっくりした。

「ほんとは、バスから降りなければ、
 このマスクも必要ないんでしょう?」

東京電力の方は苦笑した。
そうなんですよ、と答えるわけにはいかないのだろう。

もちろん、原子炉の間近で廃炉作業に携わる人たちは
いまも厳重な装備を義務づけられている。
ほかのメディアの視察レポートなどを読むと、
線量の高い場所でバスから降りる場合は
やはり同様の重装備をまとっている。

一方で、線量がそれほど高くない場所、
つまり原子炉から離れた場所では、
たとえ屋外の作業であろうと、
作業員が防護服を着ていない場合もあった。

つまり、違う言い方をするなら、
福島第一原子力発電所のなかの
放射線量と装備に関することは、
さまざまなことがきちんと検証されて、
ルールが徹底しているということだろう。
視察するにせよ、作業するにせよ、
場所と状況によって、どうするべきかということが
科学的に管理されている。

バスの中のマスクは科学的とはいえないのかもしれないが、
早野さんが開発したベビースキャンがそうであるように、
「科学」ではなく「心」のために必要なものもある。
その両方が必要なのだということは、
『知ろうとすること。』にしっかり書いてある。

バスは原子炉へ向かってゆっくり進んでいく。
たくさんのタンク。さまざまな形がある。
積まれている容器には、使用後の防護服など
5年分の廃棄物が詰まっているという。

ニュースなどでよく見る、
あの建物が遠くに見えてくる。
バスのなかでは、東京電力の方が
手持ちの計器でつねに車内の線量を測定している。
敷地内のところどころには
定点観測のための線量計も設置されていて、
リアルタイムで線量をチェックすることができる。

ふと窓の向こうに見える外の線量計を見たら、
「2.3マイクロシーベルト毎時」だった。

低い、とぼくは思った。

2011年の夏、ぼくは福島県の高校野球を取材した。
全国高等学校野球選手権、
いわゆる夏の甲子園の福島県予選を
開会式から閉会式まで追いかけた。
個人的な話だが、そのときの取材を通して、
ぼくのなかには、放射線量に関するひとつの基準ができた。

具体的にいうと、その基準は
「3.8マイクロシーベルト毎時」である。

東日本大震災のあったあの夏は、
福島第一原子力発電所の事故の影響で、
大会の開催そのものが危ぶまれた。
福島県の高野連をはじめ、多くの人たちが尽力し、
なんとか大会は開催されることになった。
しかし、無条件で開催されたわけではない。

各球場の試合のはじまりには、
グラウンドの放射線量を測ることが義務づけられた。
そして、その数値が
「3.8マイクロシーベルト毎時」を超えた場合、
試合は中止される、という決まりだった。
(結果的には中止になった試合はなかった)

だからぼくは、
その後、警戒区域内に入って作業をするときも、
「3.8マイクロシーベルト毎時」を
ひとつの基準として考えるくせがついてしまっていた。
「3.8マイクロシーベルト毎時」以上の数値を見ると、
ここでは試合ができないんだな、と思った。

いま、福島第一原子力発電所の敷地内にある線量計は
「2.3マイクロシーベルト毎時」を示している。
もちろん、低い数値ではない。
しかし、ぼくが思っていたよりもずっと低い。

バスは1号機へ近づく。
あの、四角い建物が間近に迫る。すぐ横に2号機。
ゆっくりと、そのそばを通り過ぎるが、
「これがそうか」と見るばかりで、
なにができるわけでもない。
窓の外に向かってシャッターを切る。

いよいよ目の前に大きく
1号機と2号機の建屋が広がったとき、
ふと車内の線量計を見ると
「44マイクロシーベルト毎時」を超えていた。
その劇的な上昇に、
放射線量において「距離」というものが
とても大きな要素なのだということを、
あらためて理解する。

「3号機の前は線量が格段に高くなります」と
東京電力の方が言った。
バスはややスピードを上げる。

まだ生々しく壊れている外壁。
3号機だ。
線量計をたしかめて、驚いた。
「200マイクロシーベルト毎時」を超えている。

早野さんは視察しながら、
東京電力の人にいくつか技術的な質問をする。

「壁についている緑色の樹脂はなにか?」
「使用済燃料プールを支えている支柱は?」
「4号機に充満した水素はどこから入ったのか?」

4号機の前まで来ると線量は
10分の1ほどに下がる。
すこし離れたところにある
5号機、6号機付近までくると、
数値は「1.9マイクロシーベルト毎時」ほどになる。

「このあたりはふつうのマスクで歩けます。
 防護服を着なくてもいいエリアです」との説明。
実際、少し離れたあたりにいる作業員は軽装である。
「距離が、ものすごく関係するんですね」と、
糸井がしみじみつぶやく。

そして、原子炉は遠ざかっていく。
あらためて、ここが広い場所だということを痛感する。

海辺の道を通り、陸側遮水壁の説明などを受けて、
バスは免震棟の前へ。
車を降り、靴カバーを外し、免震棟へ入る。
述べたように、免震棟はいまも
事故後の対策の本部として機能している。

機材や備品が並んでいる通路を抜けると、
階段と、踊り場がある。
天井の高くなったそのスペースに、
たくさんの千羽鶴。
そして、激励のメッセージ。

しばらく、ひとつひとつの、
ていねいに書かれたメッセージに見入る。
きっとたくさんの作業員の方を
勇気づけたことだろうと思う。

そしてその先は、まさに廃炉作業の最前線だ。

緊急時対策室。
フロアに所狭しと並べられた机とPC。
たくさんの人たちが、
慌ただしく動き回っている。
のんびり業務をこなしているという感じではなく、
誰もがじぶんの仕事に取り組んでいるという
活気のようなものがある。

広いホールの中央には、
これもまたニュースでよく目にした、
「福島第一原子力発電所の免震棟と
 東京電力本店を結んでいるモニター」。
いまも、リアルタイムで機能しているようだ。

免震棟について説明してくださったのは
福島第一原子力発電所の小野明所長である。

小野所長は、緊急時対策室の働きやこれまでの経緯などを
ざっと教えてくださったあと、
予定した時間を超えて、
早野さんや糸井と活発に意見を交換し合った。
立ち話のまま、そこにいた東京電力の社員の方を交えて、
けっこう長く話した。

視察のときに、そういったかたちで
話が盛り上がるのは、
なかなかめずらしいことだと後から聞いた。

やり取りの中で、
糸井重里は小野所長にこう質問した。

「いま、ここで働いている人たちは、
 これまでの『発電』とは
 まったく違う仕事をしているんですね?」

ぜんぜん違う仕事をしています、
と小野所長は答え、さらにことばを続けた。

「発電とはまったく違ういまの仕事に、
 若い社員はやりがいを感じているようです。
 ずっと発電を仕事にしていたベテラン社員は、
 これまでの知識が役に立ちませんから、
 やはり、若い社員のほうがモチベーションは高い。
 若い彼らが新しい設備をどんどん整えて、
 道を切り拓いています。
 事故の前と後では、仕事の内容というか、
 仕事のジャンルそのものも変わってしまいました。
 福島第一原子力発電所の作業員は
 現在、7~8千人ほどですが、
 そのうち半数にあたる3~4千人が、
 『土木と建築の分野』で働いています。
 震災の前は、これだけ大規模に
 土木工事をしている原子力発電所は
 どこにもなかったと思います」

糸井はうなずきながら、
今日の視察の総合的な感想としてつぎのように言った。

「ある意味で、土木工事の最先端の仕事が
 ここに集まっている、ともいえますね」

たしかに、福島第一原子力発電所は、
思いがけないほど「土木の現場」だった。

たとえば、あちこちで行われていたのは
「土の表面をコーティングする」という作業だ。
土が剥き出しになっていると、
雨が染み込み、地下へ流れて、汚染水の原因となる。
それをふせぐために、
福島第一原子力発電所の敷地内では、
現在、斜面や街路樹の根元なども含めて
すべての土を舗装しようとしている。

750トン級のクレーンは日本に数台しかないそうだが、
一時期、そのうちの3台が
福島第一原子力発電所にあったのだという。
糸井は言う。

「最新の土木工事の現場であると同時に、
 『廃炉』に関しても最先端ですね。
 誰もがやってないことに、
 必然的に取り組んでいるというか、
 ある意味で宇宙開発のように、
 ここにしかないものがそろうことになる。
 その意味では、『廃炉』に携わる人たちが
 世界中からここに学びに来る、
 という場所になるんじゃないでしょうか」

実際、原子炉のなかにいまもある
燃料デブリ(原子炉の燃料が融け落ちて固まったもの)を
調査、撮影するために、
最新のロボット技術が駆使されているという。
それを取り出すには、さらなる技術改革が必要だ。

早野龍五さんは、小野所長に新しい提案をした。
それは、近年、早野さんが取り組んでいる、
「世界の高校生たちに福島を知ってもらう」
というプロジェクトの一環だ。

「若い人たちにここを知ってもらえたら
 と思うのですが、
 視察するにあたって年齢規制はあるんですか?
 たとえば、外国の高校生たちを
 連れてくることは可能ですか?」

福島第一原子力発電所を視察する年齢については
法的な規制はないということだった。
しかし、当然ながらここは帰還困難区域でもあるので、
別の問題はあるのかもしれない。
早野さんの計画については、
今後、前向きに検討していくことになった。

約3時間の福島第一原子力発電所視察を終え、
ぼくらはふたたびJヴィレッジに戻った。
濃密な3時間だった。

福島第一原子力発電所からJヴィレッジへの道のりに、
一面のすすきが揺れる広い場所がある。
皮肉なことに、というか、
福島第一原子力発電所から数キロの場所、
かつて「警戒区域」と呼ばれていた地域は、
この5年間、ほとんど人が入れなかったため、
たいへんに自然が豊かだ。
そもそも、福島の自然はほんとうに美しい。

Jヴィレッジへ向かうバスのなかで、
ぼくは、きらきらと輝くすすきの海に向かって
何度もシャッターを切った。
ほんとうに、夢みたいにきれいだったから。

福島第一原子力発電所は、
とらえる人の考えや立場によって
さまざまな見え方をする。

直接、そこを見て、なかに入って、働く人の話を聞いて、
ぼくのなかにはまた新しい一面が加わったように思う。

最後に、今回の視察とは、
直接関係のないことかもしれないけれど、書いておく。

福島第一原子力発電所とぼくらをつなげてくれた、
齋藤寿輝さんには、娘さんがいる。
福島第一原子力発電所が齋藤さんにとって「職場」なら、
娘さんにとっては「おとうさんの職場」ということになる。

『つなみ』という作文集がある。
ジャーナリストの森健さんが編纂したもので、
東日本大震災の後(数ヵ月後と1年後)、
震災を乗り越えた子どもたちに作文を書いてもらい、
それをまとめたものだ。
そこに、齋藤さんの娘さんが
2012年に書いた作文が掲載されている。
当時、中学3年生だった彼女はこんなふうに書いている。

「私の町は先程も言ったように原発のある町です。
 おそらく、もう私の生きている間には戻れません。
 ですが、私はこの事を
 けっして原発のせいだとは思いません。
 確かに原子力発電所での爆発が無ければ、
 私はもう一度あの町でいつものように
 過ごしていたと思います。
 しかし、私は原発の事を恨んでなどいません。」

齋藤さんの娘さんは、
じぶんの父親が東京電力に勤めていること、
そして、震災後は、ずっと家に帰ることなく、
事故の対応に力を尽くしていたこと、
そして、じぶんの故郷の風景が
原子力発電所とともにあったことと、
それをただ「悪いもの」として叩く人との
ギャップに悩み、しだいにふさぎ込んで、
学校にも行けなくなってしまう。

しかし、大好きなサッカーを通して気持ちを保ち、
いまはスポーツの専門学校に通っている。
今年、出版された『つなみ』の続刊、
『つなみ 5年後の子どもたちの作文集』には
彼女の新しい作文が掲載されている。
そこに綴られたことばに、胸を打たれた。

「人生は、辛い事ばかりのように感じて、
 どうして自分だけが
 こんなに辛いんだろうと思う時もあります。
 だけど、自分も含め、人が必死に生きるのは
 次にある幸せを心のどこかで
 期待しているからなんだと思います。

 どんなに些細な事でも、
 喜びは人を笑顔にしてくれます。

 私が5年前から変わらずに思っているのは、
 将来は人に笑顔や勇気、
 希望を与える人になるということ。

 みんなの笑顔を見ると自分も笑顔になれます。
 誰かの笑顔に私はなりたいです。」

福島第一原子力発電所を、
そして、東京電力を、許せないという人はいる。
それはもう、仕方のないことだと思う。

言っても仕方のないことだけど、
ぼくは、福島を取材するたびに、いまだに思う。
「せめて津波が来ていなければ」と、いまだに思う。
思ってもしょうがないことだ。
津波は来たし、東日本大震災は起こったし、
福島第一原子力発電所は電源を失って、
起こってはいけない事故が起こったのだ。

なにもかも元には戻らないし、
それを怒ったり、悲しんだりするのは、
とても自然なことだと思う。

そのうえで、いま、活動をしている人たち。
廃炉に向けて、新しい仕事をしている人たち。
希望に向かって、歩き出している人たちを、
やはり、ぼくは、応援したい。
二度と起こらないようにする努力や、
少しでも元の場所に近づけようとする作業を、
ひとつひとつ、尊重したいと思う。

福島第一原子力発電所は、さまざまな面がある。
きっと、ぼくが生きているうちに、
すべては解決されないのだろう。
それでも、そこからはじまる希望だって、ある。

この場所を、許せない存在だと感じることを否定しない。
自分たちを引き裂いた元凶だと感じる人もいると思う。
福島第一原子力発電所は、さまざまな面がある。
人の数だけ、とらえ方がある。
どんなとらえ方だって、その人にとって、リアルだ。
だからこそ、ある一面だけを絶対的な見方として
ほかの人に強制するような不自然なことが
なくなりますようにと、せめて、祈る。

まだまだたくさんの問題がある。
きっと、ぼくの知らない困ったこともあるだろう。
勘違いだってしているかもしれない。
それでも、ぼくは、
完全な理解や把握を目指して動けなくなるよりは、
実際の行動を選ぶじぶんでありたい。
現実的な、具体的な、実際の行動が、
たとえほんの少しずつでもよいことに近づくと、
あいかわらずぼくは信じている。

「人が必死に生きるのは
 次にある幸せを心のどこかで
 期待しているからなんだと思います。」

2016年3月 永田泰大

  • 乗組員の永田がこれまでに書いた、福島についてのコンテンツ。
  • 福島の特別な夏。
  • 書きかけてやめた、福島のことを、もう一度。
  • 東北の“長”に訊く。─あの日のこと、いまのこと─福島県相馬市 立谷秀清市長
  • 福島の夏2013。─選手宣誓─
  • 福島県須賀川公立岩瀬病院のこと。