震災からようやく1年が過ぎようとしていた
今年の3月5日、案内されて、
福島県の海沿いにあるいくつかの町を訪れた。
もう、4ヵ月以上が経ってしまった。

取材を終えた日、
見たこと、聞いたこと、感じたことを
大急ぎで原稿にまとめて、
一週間後にせまる「3月11日」に掲載しようと思った。
そうでもしないと書けない、と直感したからだ。

けれども、できなかった。
落ち着いてからゆっくりまとめよう、と、
ずっと思っていたけれど、
それもうまく運ばなかった。

何度も書きかけてやめた、
あの日の福島でのこと。
なんのきっかけがあるわけでもないけれど、
やっぱり書くことにする。
冒頭にそうでも書かないと、書きはじめられない。

2012年3月5日。
震災からようやく1年が過ぎようとしていたころ。
福島はまだまだ寒く、
雪ともみぞれともつかない冷たいものが
朝からずっと降っていた。

糸井重里がツイッターを通じて
毎日新聞の斗ヶ沢秀俊さんと知り合い、
その斗ヶ沢さんが紹介してくださった
ラジオ福島の大和田新さんに案内されるかたちで、
福島県の海沿いの場所をいくつか車で見て回った。
「気仙沼のほぼ日」の内装を手がけてくださった
京都、三角屋の三浦史朗さんも同行した。
ほぼ日刊イトイ新聞からは、
ぼくと、小池がそれに付き添った。

その日、いくつかの場所で、
ぼくはうねりだす感情を制御できずに
うろたえることになる。
最初は、車中だった。

車は相馬市での取材を終えて南相馬市へ移動していた。
助手席から、ラジオ福島の大和田さんが、
アナウンサーらしい、張りのある声で、こう言った。
「──ここが、磯部地区です」
ぼくは、息を飲んだ。

被災地の風景は知っているつもりだった。
こういう表現がいいかどうかわからないが、
そこよりも壊れている場所、
そこよりも生々しい場所も、いくつか見てきたと思う。
けれども、そういうところを訪れるとき、
ぼくのなかには自分なりの準備があった。

厳しい風景が目の前に広がりそうなとき、
あるいは、目の前の人が
心を締めつけるようなことばを語り出しそうなとき、
やせ細った動物の鳴き声を聞くとき、
人の気配のしない町でシャッターを切るとき、
ぼくは、さっと自分の意識を遠ざけるようにしていた。
そうしないと、冷静に仕事ができないからだ。

自分の意識を、自分の身体からちょっと切り離す。
少し上の方から、自分の身体を見下ろすみたいに。

そんなふうにして
ぼくはいくつかの場面を乗り切ってきた。
誇るようなことでは、まったくない。
自分がなんのためにそこにいるのか
ということを考えれば、自然と態度は決まる。
一時の感情に流されている場合ではないのだ。

その場所へ移動する前、
ぼくらは相馬市の市役所で取材していた。
そこで、相馬市から南相馬市にかけての
航空写真を見ていた。

市役所の人は、
「磯部地区は、近くに仮設住宅を造れる広い場所がないから、
 なかなか再建が難しいんです」と言った。

ほら、このあたりです、
と市役所の人が航空写真の海沿いの町を示し、
そこにはたしかにたくさんの建物が密集していた。
思えばそれは、震災前の写真だった。

「──ここが、磯部地区です」

走る車の中で大和田さんがそう言ったとき、
ぼくは、なんの準備もしてなかった。

窓の外には、なんにもなかった。

かつて、そこに海沿いの町があって、
車や人や自転車が行き来していて、ということを、
なんにもない場所を通り過ぎながらぼくは思った。
なんの準備もなかったから、通過するぼくの頭に、
そこにたしかにあったはずの町の感じが流れ込んできた。

かつてあった街の気配。
にぎわい。行き来。やり取り。

津波が、ぜんぶもっていってしまった。

心を切り離して身構える余裕がなかった。
涙が出た。
シャッターを切ったが、
降る雨だか雪だかのせいで、うまく撮れなかった。

車は磯部地区を過ぎてさらに南下し、
大和田さんがその場所でなにが起こったかを
助手席からぼくらに、その都度、説明してくれた。

「このあたりはまさに壊滅状態です」

「通りに逃げた人は、全員、亡くなりました」

「あの建物の上まで、水が来たんです」

大和田さんの案内で、車は海沿いにある高台をのぼった。
坂道を少し行くと、見晴らしのいい場所に、
家の「土台だけ」があった。

大和田さんは、
被災した福島の沿岸に誰かを案内するとき、
あるいは自分のチームに新しい人が配属されたとき、
かならずここへ連れてくることにしているのだという。

車が停まり、ぼくらは降りる。
冷たい雨が、ずっと降っている。
海からの風が強く吹きつけ、
傘がほとんど役に立たない。

大和田さんがそこに歩み寄り、
手を合わせる。
木の墓標。手書きの文字。
雨で黒く濡れている。



「震災のあと、このあたりを取材しているとき、
 偶然、このお墓を見つけました。
 そのときは、『父』と『妹』の文字しかありませんでした。
 この近くに来るたびに寄って手を合わせていたんですが、
 あるとき、『母』の文字が増えていました」

大和田さんは、ことばを飲み、
じっとその墓標を見つめた。
努めて冷静に、ある場面では淡々と、
福島のことをぼくらに説明してくれる
大和田さんのことばのずっと底のほうには、
たしかにある種の「無念」が感じられた。

雨のなか、ぼくらは無言で、
その木の墓標を見つめ、
代わる代わる、手を合わせた。

撮らせていただきます、という気持ちで
シャッターを切った。
息を、細く、長く、ゆっくりと吐き出して、
気持ちを身体から少し切り離しながら、
シャッターを切った。

見晴らしのいい、海沿いの高台。
素敵な暮らしがここにあったのだろう。
しっかりとした家の土台と、
その脇の木の墓標。

「見てください、この高さですよ」と大和田さんが言う。
高台から、海を見下ろす。

信じられない。
あの海がここまで。
この広い、ずっと向こうまで見渡せる海岸の、
ぜんぶの海が、この高さにまで。

降りしきる雨がいよいよ冷たくて、
傘を持つ手がかじかんで、
ぼくらは車に戻った。

雨と風と傘で視界が十全でないことが、
少しありがたいことであるようにも思った。
そうでもなければ、
もっともっとたくさんのことを考えてしまって、
そこを動けなかったかもしれない。

小さなお墓にもう一度手を合わせて、
そこを離れた。
ゆっくり呼吸しないと、
思いがあふれてしまいそうだった。

海から内陸へ1キロ行ったところに、
老人ホームがある。
大和田さんは、毅然と、こう言った。
やはり、無念を押し殺すように。

「つぎに行く場所は、
 『南相馬、最大の悲劇』ともいえる場所です」

高齢者が余生を過ごすために立てられたその施設では、
たくさんのお年寄りが穏やかな日々を送っていた。
その日、建物全体が津波にのまれた。

36人のお年寄りが亡くなった。
職員の方もひとり、行方不明になっている。

祭壇に手を合わせ、なかに入る。
深く呼吸して、
意識をすこし別の場所に離しながら。



身構えても、身構えても、
気持ちがあふれ出してしまいそうになる。
その度、意識を遠くへ切り離す。

糸井重里が、ぼくに言った。
「永田くんさ、仕事だと思って、撮っといて」
それはカメラを持つぼくへの
気遣いにも思えた。

まだ生々しい、泥のあと。
天井に、泥のあと。
割れたガラス。破られたドア。
むき出しの配線。
足あと。
手のあと。



なかのものはすべて運び出されている。
撤去も掃除も完全に終わっている。
けれども、痕跡が、はっきりと残っている。
そのとき、ここで、
なにが起こったのかということの痕跡が。





写真を撮りながら、つい、感情が動いて、
ひとつひとつのものに見入ってしまいそうになる。
息を細く吐いて、意識を遠ざける。

機械的に写真を撮っていたけれど、
つい、感情がもどってきてしまったのは、
壁に設置された小さな照明器具を見たときだ。
あ、これは、ベッドサイドだ、と思った。

うねり出しそうな気持ちをぎゅうと引きはがした。
けれども、目を少し転じたとき、
壁に泥だらけの写真が一枚貼ってあるのがちらと見えて、
間に合わなくて、涙が出た。
おそらく、そこにいた人の写真だ。

どうして、写真はそのまま残っているのだろう?
本人はいなくなってしまったのに、
なにもかもなくなってしまったのに、
どうして、その写真は、壁に残っているのだろう?



案内しながら、大和田さんが言う。
「ここは海から1キロです。
 1キロですよ?
 誰ひとり、津波がここまで来るなんて、
 想像しませんでした。できませんよね」

海から1キロ。なだらかな平地。
余生を過ごすには、
申し分のない場所だっただろうと思う。

大和田さんが言う。
「このあたりは津波が届いたぎりぎりの場所です。
 もう少し海から離れると、町は無傷です。
 ほんとうに、ぎりぎりでした」
そこで少し黙ったあと、
大和田さんは無念を押し殺すように、こう言い足す。
「この建物に2階があったら、あるいは‥‥」

海から1キロ離れた場所にある平和な老人ホームは、
平屋だ。
階段もなく、過ごしやすかっただろう。

写真を撮っていた三浦さんが、唇を噛みしめる。
取材のあと、三浦さんはこんなふうに語った。
家の設計や内装を手がけている三浦さんならではの
悔しさに満ちたことばだった。

「家が、役に立っていない。
 家が、人を、守れていない。
 ぼくもね、あの場所に老人ホームを建てるなら、
 絶対、平屋にしたと思いますよ。
 広い土地があるんですから、
 木をつかって、平屋にして。
 そういうことが、人の暮らしにとって
 いいことなんだと、ずっと言ってきたんです」

自分のやってきた仕事は
いったいなんだったんだろう、と、
三浦さんは独りごとのように言った。



最後に、南相馬市の萱浜(かいはま)地区を訪れた。
そこに上野敬幸さんという人が住んでいる。

大和田さんが、もっとも強く、
糸井に会うことをすすめたのが、上野さんだった。

午前中にはじまった取材は、
いつの間にか夕方になろうとしていた。
けっきょく、雨は一日中やまなかった。

車のなかで、大和田さんが、
あらためて上野さんについて説明してくださった。
事前に、おおまかに教えていただいていたことだったが、
やはり、心構えの必要な話だった。

「ご覧のように、このあたりは壊滅です。
 家はほとんど、ありません。
 見渡すかぎり、一軒も家がありません。
 この、なんにもなくなった萱浜地区で、
 ほんとうに偶然、一軒だけ残ったのが、
 上野さんの家なんです。

 上野さんは、ご両親と、
 8歳のお嬢さんと、3歳の息子さん、
 4人を亡くされています。
 娘さんとお母さんの遺体は見つかりましたが、
 お父さんと、3歳の息子さんは
 まだ発見されてません。

 上野さんはJAにお勤めされていたんですが、
 仕事をやめて、毎日、遺体の捜索をされていました」

現在は、捜索を続けながらも、
立場的には、農地復興という名目で
そのあたり一帯の整地や、
除染のボランティアをはじめているのだという。
大和田さんは、続ける。

「少しだけ高い場所にあったおかげで、
 上野さんの家だけが、
 半壊状態でしたが、一軒だけ残りました。
 おかげで、震災の直後、上野さんの家が
 ある種のシンボリックな存在として、
 カメラスポットになってしまうんです。
 
 これまでに行った場所にもありましたが、
 上野さんの家にも祭壇があります。
 お父さんとお母さんの写真、
 娘さん、息子さんの写真がそこにあります。
 そこに行って、手を合わせて、お線香をあげて、
 きちんと写真を撮らせてくださいと言えば、
 上野さんはなんにも文句言わないんです。

 ところが、祭壇に手も合わせず、
 線香もあげないで、それこそ土足のまま
 上野さんの家に入っていく人が
 いっぱいいるわけですね。
 いちばん多いのはマスコミなんです。
 そこが、『絵になる』場所だからです。 

 それで、上野さんは、マスコミが大嫌いなんです。
 当たり前ですよね。
 私も、上野さんに最初に会ったとき、
 『なんだお前は』って、けんか腰で言われました。
 たちが悪いマスコミは、
 上野さんの家に土足で上がって写真を撮って、
 上野さんに怒られると、開き直るそうです。
 『オレたちはこの震災を後世に残すために
  写真を撮ってるんだ』って。
 それで、しょっちゅうけんかになるんです。
 そういう状態でしたから、
 当時の上野さんは、誰彼構わずかみついて、
 ずいぶん荒れていました。

 あれから1年が過ぎて、
 上野さんもいまはずいぶん落ち着いてます。
 ようやくですが、5日後の3月10日、
 お葬式をやることにしたんだそうです。
 まだ、遺体のあがっていない、
 お父さんと息子さんを含めて」

大和田さんのことばを聞きながら、
ぼくらはことばがない。

雨に煙る鼠色の風景のなかに、
上野さんの家が見えてきた。
まだ夕方なのにこんなに暗いのは、
辺りに電灯がまったくないからだ。

「このあたりは、
 福島第一原発から22キロくらいです。
 警戒区域ぎりぎりですから、
 自衛隊が遺体捜索をはじめたのは、
 震災から1ヵ月以上経ってからだったそうです。
 それまでは、上野さんと、その仲間が、
 この地区の遺体をさがして集めたんです。
 ──着きました、
 ここが上野さんの家です」

雨のなか、ぼくらは降りる。
家の背後にある木のせいか、
周囲よりは幾分高い立地のせいか、
屋根の瓦はほとんど残っている。
けれども、一階の半分は、
骨組みしか残っていない。

大和田さんのあとを追って、
玄関部分へと向かう。
やはり、損傷が激しい。

そこに、祭壇がある。
手を合わせようとした。
けれども、その前に、目に入ってしまった。

家族の写真。
泥の中から探し出したのだろう、
汚れて、曲がった、家族の写真。
とりわけ、焼きついたのは、子どもの写真。
女の子と、男の子。笑顔だ。

個人的な話になるけれども、
ぼくにもふたりの子どもがいる。
男の子と女の子で、
年齢も写真の子どもたちに近い。

こらえることをあきらめるほど、
悲しみがこみ上げてきた。
それは、圧倒的な悲しみだった。

とりわけ自分の感情を突き動かしたのは、
写真のまわりある、子ども用のオモチャだった。
プラスチック製の、やはり、泥だらけの。

そういうものは、うちにもある。
それをぼくは知っている。
そう、どこにでもある、子ども用のオモチャだった。

悲しみのなかで、ただただ手を合わせた。
強く、祈った。
写真は、撮れなかった。
いまもあの祭壇のことを、
部分的に、とても鮮明に思い出す。
おそらく、忘れないだろうと思う。

玄関から向かって右側に
比較的、傷んでいない部屋があり、
上野さんはそこを捜索活動の拠点にしていた。
シートや板で最低限の修復がされていて、
カセットタイプのガスコンロや
こたつがもちこまれていた。

上野敬幸さん。38歳。
南相馬市萱浜地区で、上野さんの家だけが残った。
上野さんは地区の消防団員でもあり、
震災の直後から、被災者の救助にあたった。

壊滅状態となったこの地区で、
仲間とともに、多くの遺体を捜索。
それは、いまも続いている。

「ずーっと、置いてけぼりですよ」

簡単な挨拶のあとで、上野さんは言った。

「どうしても、福島県、南相馬っていうと、
 放射能っていうイメージがあるでしょ。
 実際、ここは原発まで22キロくらいだから、
 警察も消防署も入ってこない。
 自衛隊がはじめて捜索に入ったのが
 4月の20日を過ぎてから。
 来てくれたときは、ありがたいなと思ったけど、
 ゴールデンウィークには、もういなかったから。
 10日ちょいくらいで、もう終了です。
 だから、きちんと捜索してもらったっていう感じは
 ぜんぜん持ててないですね。

 ずーっと、置いてけぼりですよ。
 よそからすると、このあたりは、
 原発が近い、放射能が近いっていう話だから、
 震災の後、このあたりの人たちは、
 誰も探してもらえないっていう状態だった。
 
 こう、見渡しても、誰もいないんですよ、ほんと。
 だーれもいない。
 自分たちだけが、いなくなった人を探してて、
 あとは、だーれもいない。
 でも、そのときは、べつに、悔しくもなかったな。
 怒りも、ぜんぜんなかった。
 探さなきゃ、っていうだけでね。
 ‥‥まだ見つかってないけどね、うん。

 もう、1年経つけど、ぼくとしては、
 ほんとに、あっという間だった。
 いつの間にか、ここで留まって、
 いなくなった人を探してるうちに、いつの間にか」

震災直後、上野さんたちのところにあったのは、
重機が1台。
それだけで、瓦礫をどかし、泥をすくって、
誰かがうまってないか、いちいちたしかめた。
重機を増やそうにも、
「放射能がうつる」などと言われ、貸してもらえない。
「レンタルするなら買い取れ」
と言われたこともあるという。

「ぼくら、その、『復興』って言われてもね‥‥。
 どうしてもギャップを感じるんです。
 どこの人たちも『復興』って言ってる。
 『復興』は、たしかに、大切なことです。
 でも、福島県で『復興』っていうと、
 やっぱり放射能に関してのことでね。
 津波被害に対しての『復興』っていうふうには、
 やっぱり、言ってないからね。

 行政も、農地を復興しましょうとか、
 工業団地をもってきましょうとか、
 いろいろ考えてるみたいだけど、
 ほかの県、ほかの場所にくらべると、
 ぜんぜん遅れてるのかなって思います。

 ほんとうにここにいるのがいいのか、とも思うし。
 たとえば、学校の子どもたちに、
 戻ってきてくださいって言ってるけども、
 実際、ほんとに、戻ってきていい場所なのか。
 かといって、簡単にここから
 離れることができない人たちもいるわけで。
 ぼくもね、ここがイヤになったからって、
 亡くなった親と子どもを置いて
 遠くに行けるかっていうと、行けないわけで。
 ここで守っていかなければいけないものもある。
 だから、ぼくは、逃げることはできないけど、
 かといって、子どもたちはどうすればいいのか。

 大人はもう、しょうがないというかね、
 まぁ、何十年か経って、
 影響がどうかというのは、わからないけれども、
 俺は、そんなに長生きするつもりもないから。

 自分の身体はどうだっていい、
 っていうわけじゃないけど、
 やらなきゃいけないことがぼくらにはあるわけで。
 たくさんの人がまだ行方不明だから、
 見つけてあげなきゃいけない、
 見つけてあげなきゃいけない、っていうのだけで、
 ずーっとやってきたわけだから。

 だから、家族をなくしてるひとたちっていうのは、
 避難っていわれても、簡単にはできない。
 そういった意味では、難しい地区になってしまった」

このあたり一帯は、田んぼや畑が多く、
多くの家が専業農家だったという。
上野さんの家も農家を営んでいた。
お父さんも、お母さんも、農家だったけれども、
上野さんは、まだそれを引き継いでいなかった。

「俺の家も、専業農家でね。
 ‥‥なんにも教わらないまま、逝ってしまった。
 親父たちに、農業のこと、
 教えてもらうまえに、逝ってしまった。
 かといって、親がいままで守ってきた農地を
 手放すことも、できないわけだから。
 だから、機械もなんにもない、
 マイナスから、やらなきゃいけない。
 少なくとも、じぶんの家の土地くらいはね、
 なんとかしていきたいなとは思うけど、
 まぁ、農地が、この状態だからね。
 1年やそこらできれいになるわけでもないし、
 ずいぶん先になるのかなとは思うんですけれども」

どの切り口からの話も、
晴れ晴れとした答えは出ない。
上野さんの口調はやはり重く、
1年間のうちに積み重なった
疲れのようなものを感じさせた。
しかし、話が、震災直後のこと、
この付近の土地がきちんと捜索されなかったことに及ぶと、
輪郭のはっきりとした憤りが噴きだしてくる。

「なんにもやってないのに、
 このあたりは捜索終了地区っていう扱いになって、
 警察は行ってしまった。
 なにが終わったのか、わからない。
 3月の終わりくらいだったかな、
 一回、警察の重機が入ったんだけど、
 水が溜まってる、ぐちゃぐちゃの中に入ったんです。
 水を抜かないと、なにがあるかわからないのに。
 で、ぼくらが水を抜いたら、
 重機のそばから、子どもの遺体が出てきた。
 重機でじゃぶじゃぶ入って、
 それに4人も5人もついてて、なんにも見つけてない。
 なんにも、くその役にも、たたない。

 水中ポンプで水抜けば、すぐ見えるのに。
 当時、ぼくらは、水を抜くためのポンプがなくて、
 消防のポンプ、つかってたんです。
 水を抜くためのもんじゃないから、効率が悪くて、
 大した量、吸えないんです。
 だから、ここの後ろの田んぼで、
 消防ポンプ2台つかって、
 3週間くらいかかって、水を抜いたんです。
 でも、行政が、でっかいポンプ準備してくれれば、
 あんなの1日で抜ける。
 でも、誰も準備してくれない。
 自衛隊が、自分たちの捜索のとき、
 水中ポンプ持ってきたら、ほんと、1日だった。

 家族が行方不明だったらね、
 当たり前だけど、早く見つかってほしい。
 きれいな状態で見つかってほしい。
 だけど、なんの支援もないままでね‥‥」

ここで行方不明になって、
ずっと離れた場所で見つかった人の話。
津波のあとの引き波に流されて、
屋根の上に乗って太平洋を漂流し、
4日後に沖で見つかった人の話。
目の当たりにした津波の威力を思い出しつつ、
もっと救えた命があったかもしれない、と
上野さんはくちびるを噛む。

上野さんは消防団員だったから、
当たり前に、流されている人を助けて回った。
上野さんの大きな後悔がそこにある。

「こっちで流されてる人、助けてたよ。
 津波のときね。流れてる人を。
 じぶんちは、避難してると思ってるから。
 でも、子どもがね‥‥。
 わかってれば、真っ先にじぶんちに来るよ。
 こう言っちゃなんだけど、他人を助けて、
 じぶんの子どもを助けられなかった。
 もっと早くね、最初から、行ってれば、
 もしかしたら‥‥わかんない‥‥」

上野さんの目から涙があふれ、
事情を知っている大和田さんがことばを引き継ぐ。

「上野さんは、地震のあと、
 心配になって自宅を見にきているんです。
 ご家族は、『学校へ避難する』って
 おっしゃったそうです。
 実際、一度は学校へ避難されてます。
 そのまま、学校にいたら、
 ご家族は、大丈夫だったんです」

上野さんは、何度その場面を、悔やんだのだろう。
そして、これから何度、悔やむのだろう。

「ぼくが、家族がいないっていうのを知ったのは、
 もう、夕方だったから。
 学校に行ったら、帰ったよって言われた。
 避難してるもんだと思って、安心してた。
 まさか、戻ってきてると思ってないから。
 どこの避難所に行っても、いない。
 
 もしも‥‥っていうことは、考えるけど‥‥
 うーん‥‥しょうがないな‥‥。

 だから、俺は、親としては‥‥
 子どもを救えなかった親だから。
 助けてあげられなかった親だから。

 やっぱり、自分をね、責めてる。
 親だから、子どもは、すべてだから。

 捜索だってね、
 子どもを抱きしめたいと思って
 やってたわけだから。
 みんな、そうだと思う。
 家族見つけて、抱きしめてあげたい。
 ごめんなさい、ありがとう、って言ってあげたい。
 っていう気持ちがあってね」

ここへ来る道中、大和田さんが言っていた。
上野さんは、もう、落ち着いてますけど、
家族の話になると、やはり、
まだまだ冷静には語れないと思いますよ、と。
語る上野さんの目から涙があふれ、
話は、どんどん、悲しくなっていく。

「昨日のことのように思い出すんです。
 向こうが茶の間で、ここにテレビがあって、
 ぼくが帰って来ると、チビが、3歳の長男が、
 玄関開けて裸足で走って来るわけ。
 毎日。おかえり、って言って。
 それで、ここで、お姉ちゃんとテレビを見て。
 だから、ここに座ると、
 俺の足の上に、ちびが腰をおろす‥‥
 それが‥‥昨日まで、そうだったような感覚。

 なかなかね、その子どもたちのために、
 じぶんも幸せにならなきゃいけないって
 言ってくださる人はたくさんいるけれども、
 その気持ちには、なかなかなれないから。
 自分の命を捨ててでも
 救ってあげたいのが自分の子どもだからね。
 救えなかった親として、子どもたちには、
 ごめんなさいっていう気持ちが強いから。

 復興することが大事だっていうのは、
 わかるんだけどね。
 そういう方向に気持ちが向いていくのは、
 やっぱり‥‥ゆっくりなのかな。

 それは、たぶん、ぼくだけじゃない。
 子どもを亡くした親は、ずっと自分を責めてる。
 ちょっと縁があって、同じような境遇の、
 子どもを亡くした方と会う機会があったんです。
 その人もやっぱり自分を責めていて、
 しかも、その人のまわりは、ぼくと違って、
 悲しい境遇にある人があまりいなくて、
 周囲に気を遣って、あまり悲しい顔もできない。
 その人が、ぼくに会って、
 自分のなかに溜め込んでたことをしゃべったとき、
 やっぱり、俺と同じことを思ってた。

 こう言っちゃ、なんだけど、
 ぼくはね‥‥
 生きたいとは思わない。
 長生きしたいとも思わない。
 かといって、自分で、
 子どもたちのところに行きたくて、
 死のうとも思わない。
 それは、やっぱり、悪くて、できない。

 だから、ずっとね‥‥
 自分の寿命が来るのを待ってる。

 たとえば、それが5年後なのか、10年後なのか、
 20年後なのかわかんないけど‥‥
 それは、黙って、やっていく人生。
 で、寿命が来たら、
 笑って死んでやる、って思ってる。
 子どもたちに、会えるからね。

 だから、なんだろう、
 立ち直るってことは、
 ないんじゃないかなって、
 やっぱり、思うんですよね」

部屋中に深い悲しみが満ちて、
ぼくらはことばがない。

おそらく、何度も何度も思いをめぐらし、
受け入れる以外なかった、大きな悲しみ。
明日への力に転じられるわけでもなく、
どこかほかのところへ逃避できるわけでもなく、
受け入れる以外なかった、大きな悲しみ。

糸井重里は、上野さんの正面に座り、
目を真っ赤にしながらその話を聞いていた。
ぼくは、糸井が、なんと言うのだろうと思った。
だって、なにも言いようがないではないか。

糸井重里は、別れ際に、上野さんの手を握り、
絞り出すように言った。

「どうか、ご自分を責めないでください」

たぶんそれは、
これまで何度も上野さんが言われたことばで、
それでも自分は自分を責めてしまうのだと
上野さんは言っていた。
それでも糸井重里は、涙をためたまま、
ありふれた、そうとしか言いようのない気持ちを
素直にくり返した。

「どうか、ご自分を責めないでください」



しばしば、ぼくらは、ことばを失う。
あの震災の日以降、
とりわけ、ことばを失う場面が増えた。
もしかするとそれを「慣れた」と
言いかえることもできるかもしれない。

言うべきことばがない。
言うべき立場にない。
言うべきこたえがない。

でも、胸の中に、
なにか、言いたいかたまりがあったら、
できるだけ、それを追い求める自分でありたい。
目の前に悲しんでいる人がいたら、
心から思ったことを、言える自分でいたい。
ことばを失うことに、慣れたくはない。

震災のとき、
上野さんの奥さんのお腹の中には、
新しい命が育っていた。
9月、無事にお子さんが生まれた。

上野さんと上野さんの奥さんは、
生まれた子どもに、
いなくなってしまった
お姉ちゃんとお兄ちゃんの名前から
一文字ずつもらい、
そこに「生」という字を足して名前をつけた。

悲しみは、それとは違う次元で、
埋まらないまま、ずっとあるのだと思う。
けれども。

それこそ、
ぼくになにかが言えるわけではないけれど、
おふたりが授かった新しい命が
力を与えないはずがないとぼくは信じたい。

大和田さんに聞いた話。

震災後、ひとりで捜索を続ける上野さんを慕い、
何人もの仲間が集まってきた。
荒れていた上野さんも少しずつ落ち着きを取り戻し、
いまは、地区の復興のリーダー的存在として
活躍しはじめているという。

「生きたいとは思わない」と上野さんは言った。
それは、間違いなく、ひとつの本心だろうと思う。
けれども、違う一面として、
上野さんは、仲間たちと、
少しずつ前へ進みはじめている。
どちらも真実なのだと思う。

去年の夏の終わりには、
上野さんたちが中心になって、
地区で亡くなった人たちを忍ぶ、
慰霊の花火を上げたそうだ。

138人の方を忍ぶ、
138発の打ち上げ花火。
最後に打ち上げられたスターマインは、
地区の再生を願って、
そして、ボランティアの方たちから、
上野さんへの感謝を込めての花火だったという。

終わりに、きれいごとばかりは書けない。
上野さんからうかがったけれども、
ここに書けなかった、
悲しい話、ひどい話、痛々しい話がいくつもある。
軽はずみな楽観論は、許されないと思うけれど、
どうか、よい方向へ少しでも進みますようにと祈る。

帰りの車のなかで、
ぼくはどうしても上野さんの話を
思い起こさずにはいられなかった。

悲しい話だった。
悲しい話を聞いた。

ずっと、涙がとまらなかった。
どの場面の、どの気持ちになっても、
悲しくてしかたがなかった。

子どもを失うというあまりにも悲しい場面を、
親であれば、それを恐れるがあまり、
つい想像してしまうことがあると思う。

ぼくと同じように小さい子どもを持つ小池も
ずっと泣いていた。
それは、涙があふれるくらいでは、
まったくやわらぐことのない、
どこまでいってもそこにあるような悲しみだった。

この日、ぼくは、自分の人生において、
もっとも悲しい出来事と、接点を持った。

あとからあとからあふれてくる涙をふきながら、
車のいちばん後ろの座席で、
これを「悲しみの基準」にしようと、ぼくは思った。

これから先、ぼくが悲しみに接したら、
この日のことを思い出そう。

それがなにを意味するのか、よくわからない。
けれども、ぼくはこれを、
「悲しみの基準」にしようと、
帰りの車のなかで思った。

この記事をいままで書くことができなかったのは、
書いてどうなるのだ、と思ったからだ。

すごく悲しい話を、そのまま書いていいものだろうか。
読んだ人を悲しい気持ちにさせて、
どうしようというのだろうか。
悲しい気持ちになってほしくて書くのか。
現状を知ってもらいたいという使命感が
はたして自分のなかにはっきりとあるのだろうか。
あるいは、荒れ果てた風景を伝えることが、
復興へ向かう福島のマイナス面を
強調しすぎるのではないだろうか。

だいたい、どうして、いま書く必要があるのか。
なにか、震災関連のタイミングに合わせて掲載したほうが
コンテンツとして自然ではないだろうか。
そもそも、ほぼ日刊イトイ新聞という場に、
この主観的なテキストは不似合いではないか。

「書いたほうがいい理由」と
「書かないほうがいい理由」の数をくらべたら、
「書かないほうがいい理由」のほうが圧倒的に多かった。

しかし、あるとき、ふと思った。
「書かないほうがいい理由」が
山ほどあるからこそ、書いたほうがいい、と。

そうでないと、ぼくらはことばを失うばかりである。
口をつぐんだほうがいい場面がどんどん増えていく。
真剣に考えたすえにことばを飲みこむ沈黙ではなく、
「無難な沈黙」「先送りする沈黙」だらけになってしまう。

なにかをやろうとするとき。
「やったほうがいい理由」と
「やらないほうがいい理由」を比べていったら、
きっと「やらないほうがいい理由」のほうが多い。
自分の中で多数決をしていたら、
たぶん、ずっと、なにもできない。
そして、これはとても大事なことだと思うのだけれど、
なにもできないことを、誰も責めはしないし、
事実、責められるようなことは、なにひとつないのだ。
だから、そんなふうにしているうちに、
月日はあっという間に過ぎてしまって、
「やったほうがいい」と思っていた自分は、
まるで、最初からなかったことになってしまう。

たぶん、ぼくは、そういったことがいやだったのだ。
それで、書かない理由がたくさんあるからこそ、
こうして、書くことにした。

すごく大げさにいえば、
ぼくはこのように生きていきたい。
悲しい話に、前向きで幸せな終わりの場面を
無理に書くのではなく、
けれども、悲しいなかにある微かな喜びを
まったくなかったことにするのではなく。
誰の心も傷つけたくはないが、
誰かが傷つくかもしれないということを言い訳に
ぜんぶの表現や、そのもととなる気持ちを、
最初からなかったことにしてしまいたくはない。

それで、ようやく、ここまで書くことができた。
書きかけて、何度も書きかけてはやめた話を、
ようやく最後まで書くことができた。

まだ迷いながらではあるけれども、
こういうふうにして進んでいくしかない。
とりわけ、誰にとってもわかりやすい一歩が刻める
見通しのいい道が見えづらくなってしまった
この時代においては。

おしまいに、新しく自覚しているのは、
どうやらぼくが福島という場所と
まだまだつながっていたいと
強く思っているということだ。
それがいったいどういう動機で、
なにをしていくべきなのかということは、
これから考えていきたいと思う。

長く書きました。
自分の都合でもある文章を、
この場所に、失礼しました。