その2
切羽詰まったなかの、楽しさ。

布づくりは、基本的に、私が企画して、
すべての作業をみています。
この人には細かく指示を出す、
この人はほうっておいたほうがいい、
といったことも含めて、ぜんぶ私が決めます。
たとえば、豆敷っていうちいさな手仕事は、
村の人たちに好き勝手につくってもらう、
と決めてつくっているものです。


▲豆敷

時々リクエストはするんですよ。
ヘビの刺繍が上手な人には、
ヘビ、もっとやってみて、とか。
村の人たちも、リクエストされることが
けっこう楽しかったりするんです。
できるだけその人その人の持っているものが
素直に出てくるようにと、いつも考えてます。

ただ、自由なものを出してもらうと、
当然、私がいいと思わないものが、
多少、集まってくるんですね。
でもそこで、嫌だから買わない、となると、
もうそこでその人は作らなくなってしまう。
ですから、なるべく買い取るようにしています。
わざと渋々な顔をしてお金を払うこともあります。
売りものにならないかもしれないという、
そのリスクは、私が負うわけです。
それは私としても、つらいときもあるのだけれど、
自由に作ってもらうことを続けるために、買い取るんです。

村の人たちには、
「ユキコは何がよくて、どんなものがダメなのか」
っていうところが、すごくわかりにくいと思うんです。
私も、聞かれても、「好きか嫌いかの判断よ」
としか答えようがなくて。
それはデザインなのか、クオリティーなのか、
私自身も、はっきりとは説明できないんですよ。

みんな、「これどうかな?」って、
けっこうドキドキしてるみたい。
なんかへんだな、って思うようなものを、
私が、これは面白い! なんて言うものだから、
もう、クエスチョンだらけ、みたいな感じですね。
ひとつひとつ、買い取るときの値段も違いますしね。

そういうやり取りを続けながら、お互いに探り合ううちに、
私たちの特徴っていうのが、
いつの間にか出来上がっていくんです。

違う村の人が、ちょっとお金が欲しいからって、
豆敷をつくって、うちの村の親戚に託し、
私のところに持ってくることがあるんです。
「これ、うちの村じゃないでしょう?」
って、すぐにわかります。
ここがこう、って
説明できる違いじゃないと思いますけど、
やっぱり何となく、村としての、
もやーっとした特徴ができているんですね。
そういうものは、買い取りをしません。
そこは線引きが必要なところなんです。

前にお話したときは、
私には同じように見える黒い布が何枚もある中から、
つくった人には、
「これはうちの布、そっちはよその」って、
すぐにわかる。
それがすごい、って言いましたけれど、
この4年で、私もすこし、
そういうことがわかるようになってきたのかな。


▲仕事場で打ち合わせ(撮影:鈴木晶子)

豆敷は、つくる人も、買ってくださる人も、
どちらにとっても気軽な商品として続いていますけれど、
そんな中にも厳しさっていうのか、
そういうところもあるんです。

私もちょっとびっくりしたこと、お話ししますね。

村には、身寄りがなくて体が不自由で、という人もいます。
そんな人は、木綿の糸紡ぎだとか、
簡単なお手伝いをしながら、
いろんな家を転々と、居候しながら暮らしていたりします。
豆敷のつくり手には、そういう人も多いんですけれど、
そのときの布、ちいさな布は、
その居候している家からもらって、
それをチクチクチクチクやって、つくる。

その布ね、私はその家の人が「あげている」のだと
思っていたんですけれど、違うんですよ。
できあがった豆敷を、私が買いますよね。
そのお金が入ると、布を持っていた家の人が来て、
「布の代金、いくらね」って言って、お金を分けるんです。
その、不自由な人がチクチクやって得たお金から。

なんて厳しいんだろう、って思いました。
豆敷という、こんなちいさなものですけれど、
そういう厳しさというか、緊張感、
どのくらいのお金が得られるんだろうか、というような、
切羽詰まったようなものがあって、
この手仕事は、できあがっているんですね。

切羽詰まる、って、大切なことなのかもしれません。
こういう手仕事も、最初の最初は、
寒さをしのぐためにまとう布が必要だけれど、ない。
だから自分たちでつくるしかない、という、
うんと切羽詰まったところから始まったんだと思います。
今は、それを収入源としてつくっているわけで。
目的や、仕事のかたちは変わりましたけれど、
そこにはやっぱり「切羽詰まった」感が
残っているんですよね。

そしてその切羽詰まった中には、なぜか、
「楽しさ」が必ずあるんですよ。
手を動かしているときの頭の中には、
これで少しはお金になるかな、
っていう考えもあるんだけれど、
どこにどんな模様を入れようかなとか、
こうしてみたらどうかなとか、
そういう楽しさがある。
苦しいことと、楽しいことがいっしょにあって、
その交わるところに、
いいものができるような気がします。


▲ルアさんと色について相談中(撮影:鈴木晶子)

岩立広子さんも、そうおっしゃってるんですね。
岩立さんは、古いものから今のものまで、
それはそれは膨大な数の手仕事を見て、
触れていらしたかたです。
岩立フォークテキスタイルミュージアム
すばらしいところですよ。
ぜひ、たくさんの人に行っていただきたいです。

その岩立さんがおっしゃるのは、
手仕事は、貧しさとともにあった、
ということなんですよね。
そして、とてつもなく時間がかかる、と。

今、世の中はある程度豊かだし、
みんなあくせく急がされて、手仕事なんてするような、
そんな時間がある人は、もう少ないですよね。

そうなったときに、
手仕事ってどんなかたちで残っていくんだろう。
この先どうなるのか、今、すごく考えてるんですけれど、
岩立さんには、
「そんなの考えすぎよ」って言われちゃいました。

でも考えちゃうんですよ。
家庭でする、趣味みたいなかたちで残るのか。
だけどそこには、切羽詰まったものはないですよね。
そうやってつくられたものにも、
つくる間の楽しみとか、
出来上がった達成感はあると思います。
でもなんか、ゆるい感じ、っていうのかしら。
そのへんが、違う気がするんですよね。

岩立さんは、手仕事のありようが変わることにたいしては、
しかたがないこと、とおっしゃいます。
それは、私も同じなんですけれど。
変化しつつある村に身を置いている私には、
ちょっと違う感覚があるのかもしれません。

(つづく)

2015-10-29-THU
© HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN