ほぼ日刊イトイ新聞

岩田さんの本をつくる

永田泰大

任天堂の元社長、
岩田聡さんのことばを集めた本をつくりました。
編集を担当した永田泰大が、
本ができるまでのことをすこし振り返ります。
待っているみなさんへの、
みじかい挨拶みたいにして。

2

出会いと『スマブラ』のこと。

ぼくが岩田さんとはじめて会ったのは、
1996年のことだ。

当時のぼくは
ようやく仕事ができるようになってきたかな、
というくらいの新人編集者にすぎなくて、
『MOTHER3』という
まだまだ開発中のゲームを取材するにあたり、
糸井重里という人に
ひとりでインタビューするというのは、
前日からたのしみだけど心配で
いろんなことが気になって
うまく食べられなかったり
眠れなかったりするような一大事だった。

当日、糸井重里の横に座って
ニコニコしていたのが岩田さんだった。

とても正直にいってしまえば、
そのときおかしなテンションにあるぼくのフォーカスは
ほとんど糸井重里にしか合っていなくて、
ときどき専門的なコメントや
緊張をほぐす助け舟をはさんでくれるその人のことを
たいへんありがたくは思ったものの、
とても優秀な開発の人、というくらいの
浅はかな認識でしかなかった。

その取材はさいわいとても好評で、
(そのゲームがなかなか出なかったこともあって)
その後、何回も続くシリーズになった。
ぼくは、糸井重里と岩田さんに、
半年に1回くらい会うようになった。

その人が岩田聡というHAL研究所の開発の責任者で、
岩田さんがいたから前作の『MOTHER2』が
完成したのだということを、
だんだんぼくも知ることになった。
岩田さんも、ぼくのことを、
数あるメディアの記者のひとりとしてではなく、
個人として認識してくれるようになっていった、と思う。

あちこちで書いているけれども、
ぼくはゲームファンとしての運がものすごくよくて、
仕事としても、個人の遊びとしても、
いろんな機会にずっとめぐまれ続けた。
糸井さんとも、岩田さんとも、
幸運なことにその後も会ったり話したりすることができた。

どんな人だって、その人なりの
縁や運の果てにいまがあるのだと思うけれど、
ぼくはいつどんなときに振り返ったとしても
自分の縁や運のよいめぐりに
感謝しなかったということはない。
いまだって、よくこんなことが
できているものだなぁとしみじみ思う。

その運も含めて自分を誇らしく思うのは、
ぼくは岩田さんに頼りにされたことが二度ある。
岩田さんにとってはあくまでも
「合理的な選択のひとつ」だと思うけれど、
岩田さんの合理的な選択肢のひとつに
自分がなり得たことをとてもうれしく思うし、
いまこうして原稿を書いていることも、
間違いなくその岩田さんの選択の続きなのだと思う。

一度目は1999年、NINTENDO64のソフトとして、
『ニンテンドウオールスター!
大乱闘スマッシュブラザーズ』が出た
1ヵ月後くらいのことで、
いま『スマブラ』という略称を
当たり前のようにつかっているゲームファンの多くは、
その事実をほとんど知らないか
忘れてしまっていると思うけれども、
のちに世界中で大ヒットするシリーズの
記念すべき第一作目であるそのゲームは、
発売直後、評判が芳しくなかった。

結果的に、もちろんそのゲームは多くのファンを魅了し、
発売直後に売上のピークが来る傾向の強かった
当時のゲーム業界にしては極めて異例となる
ロングセラーを記録することになる。

しかし、発売当初、『スマブラ』の一作目は苦戦していた。
というか、売上以前に、ゲームとして偏見を持たれていた。
すごくわかりやすい言い方をすると、
「キワモノ扱い」されていたのだ。

なぜなら、『スマブラ』が登場するまでは
『スマブラ』みたいなゲームがなかったからだ。
いまでこそ、この特別なゲームの新作に、
ソニックが出ようがロックマンが出ようが
クラウドが出ようがパックマンが出ようが
ゲーム&ウォッチが出ようが、
よろこびこそすれ誰もそれを非難したりはしない。

けれども、20世紀の終わりに、
任天堂がめずらしく格闘ゲームを出して、
そこでマリオとピカチュウとリンクとドンキーが
素手やバットで殴り合うのだと知ったとき、
多くのファンはマジか任天堂と思ったのだ。
やばいっしょ(苦笑)というふうに苦笑したのだ。

ぼくはというと、持ち前の運を発揮して、
その特別なゲームのサンプルを発売前にプレイし、
仲間たちとうひゃうひゃ言いながら
連日コントローラーを奪い合っていた。
ちなみにぼくはゲームという娯楽を知ったのが
ほかの編集者よりもずいぶん遅く
具体的には大学生になってからのことで、
ゲームに対する知識が人一倍ないぶん、
いろんなことに先入観というものがなくて、
それはその職業にぼくが就いているうえで
ほとんど唯一の武器といってよかった。

ぼくは素直にそのゲームのおもしろさを記事にした。
すると、その記事を読んだ岩田さんがぼくに連絡をくれた。

その新しいゲームに熱狂する人がいる一方で、
おもしろさや奥深さに気づかず通り過ぎようとする人たちに
「ゲームの中につくり手が込めたものはせめて伝えたい」
という明確な趣旨からだった。

ぼくは山梨県のHAL研究所へ行き、
岩田さんと『スマブラ』について話し、
熱く語る岩田さんの主張を記事にまとめた。
いま思えばそのとき岩田さんの横で
淡々とゲームの解説をしていたのが
いまや世界中から続編を待たれる桜井政博さんなのだけれど、
すごく正直にいってしまえば、
そのときぼくのフォーカスは
めずらしく若干ヒートアップしている
岩田さんにしか合ってなくて、
桜井政博という人の尋常ならざる才能に気づくのは
その後、単独の取材を重ねるようになってからである。

ちなみにこれはまったく余談だけれど、
そのときの取材で無知で浅はかなぼくは、
一作目の『スマブラ』の
「もどかしくも熱い盛り上がり」を、
ファミコンの『バルーンファイト』のようだと
おふたりに熱心に語っていて、
それを聞いた岩田さんが妙にニヤニヤしてるなと思ったら、
話がひと区切りしたときにぼくに向かって、
「ところで永田さん、
『バルーンファイト』プログラマーが
私だって知ってましたか?」
なんて言うからぼくはびっくりするやら恥ずかしいやらで
思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。

ああ、こういう話を思い出すと、
駆け足で振り返っているつもりなのに長くなってしまいます。
もうすこしだけ、つづきます。
岩田さんに呼ばれた二度目の機会についても、次回で。