ほぼ日刊イトイ新聞

岩田さんの本をつくる

永田泰大

任天堂の元社長、
岩田聡さんのことばを集めた本をつくりました。
編集を担当した永田泰大が、
本ができるまでのことをすこし振り返ります。
待っているみなさんへの、
みじかい挨拶みたいにして。

1

4年前の約束。

岩田さんのお葬式の日は雨だった。
雨足も風も強くて、
ただ強いだけでなくむらがあって気まぐれで乱暴で、
なんというか、それはもう、
嵐といっていいような天候だった。

黒いスーツに身を包んだ糸井重里は、
「岩田さんが最後にわがまま言ったかな」と
空を見ながら言った。
こうして書くと芝居じみて伝わるかもしれないけど、
そのときぼくはほんとにそうだなと思ったし、
見上げる黒雲のまだらの向こうに
映画みたいに岩田さんがいるような気がした。

本のはじまりがどこだったかと思い出すと、
この日になるのだと思う。
2015年7月17日、京都。
岩田さんが亡くなってから、6日後。

すこしだけお話ができた
宮本茂さんも、桜井政博さんも、
どこか呆然としていた。
ずっと秘書を務めていた脇元さんは
毅然として立ち働いていた。

雨で、風も強くて、
屋根のあるところにも吹き込んだりして、
傘も役に立たなかったりして、
かえって気にすることができてよかったのかもしれない。
「むしろそういうほうが、
さみしくなくていいんじゃないですかね」なんて、
岩田さんのあの高い声が聞こえてきそうだった。

岩田さんが亡くなってから、
SNSなどを通じて、
ほぼ日やぼく個人のところへ、
岩田さんの本をつくってほしいという声は
いくつも届いていた。
正直にいえば、ぼくもすぐそれを思った。
けれども、即座に打ち消す自分もいた。

岩田さんご自身が、
希望されないだろうなぁと思ったからだ。

岩田さんは自分が前に出るとき、
つねに「私がそれをやるのがいちばん合理的だから」
というふうにおっしゃっていた。
大勢に自分の考えを発表したいわけではなく、
個人の名を広めたい気持ちなんてなく、
そうするのがいま進めていることにとって
いちばんいいと判断して、岩田さんは行動していた。

もしも岩田さんに本を出していいですかと訊いたら、
「永田さんの時間をそれにつかうのは
ベストな選択でしょうかね?」なんて
おっしゃるのだろうとぼくは思った。

それでも、とぼくはずっと考えていた。
たぶん、ぼくは、岩田さんについて、
なにかしたくてたまらなかったのだと思う。
なんでもいいからなにかしたくて、
そうでないと全部がすっと通り過ぎていきそうで、
追悼の一文をどこかに書いても
半端に当事者を気取ったごまかしになりそうで、
なにかできないかとずっと思っていた。

大きな喪失があったとき、
人はきっとそういうふうになるのだと思う。
ぼくに「岩田さんの本を出してください」と言ってきた
たくさんのゲームファンの人たちも、
あるいは、いま、岩田さんの本が出ると知って、
それを自分に向けたものだと強く感じている人たちも、
きっと同じように、あの日から大きな喪失を抱えて、
自分なりになにかしたいと、
ずっと思ってきたのだと思う。

湿った風のなかで糸井と本の話をした。
いま書いたようなことは全部話したと思う。
岩田さんならなんて言うかねぇ、なんて話したと思う。
その瞬間のことは憶えていないけれど、
その日、ぼくはツイッターにこう書いている。
たぶん、待っている人たちに
報告しなきゃと感じたのだと思う。

“激しく降ったり、ふっとやんだりの天気の中、
ずっと糸井と岩田さんの話をしていました。
そして、やっぱり
岩田さんのことばをまとめた本をつくろう、
ということになりました。
少し先になると思いますが、
こころを落ち着けながら、いい本をつくります。”

そこに糸井も“絶対出す!”と重ねていた。
そのあと自分たちがふらふらしないように、
みんなと約束してしまいたかったのだと思う。

いまそのツイートをいまさがして読んでみると、
そこにはたくさんのリプライがついている。
きっと、みんな、なにかしたかったんだと思う。