横尾忠則 アホになる修行の極意。 横尾忠則×糸井重里 対談
横尾忠則さんの新しい著書は
『アホになる修行』というタイトルの言葉集です。
アホになるとは、いったいどういう修行でしょうか。
ここ数年、横尾忠則さん主催の「合宿」で
夏の数日間をごいっしょしている糸井重里が、
改めてお話をうかがいました。
じつは横尾さんによれば、その合宿のテーマは、
「なにもしないことをする」というもので、
それはすなわち、アホになる修行の一環と考えられます。
82歳の横尾さんが最近元気になったという話題から、
人生のあみだくじ理論に至るまで、
一生をかけた修行の極意、うかがいます。


007 目は考えないが、見る行為は思考に匹敵する。
糸井
自分の「こらえ性がないこと」を活かしたほうが、
ぼく個人として、
いきいきしたことができます。
横尾さんは、
わがままを性質として保てたことが、
そのまま特徴になっているんですね。
たとえば、学校の先生にも
そのわがままを直されたりしなかったんですか?
横尾
学校はその人の性格をぜんぶ殺すんです。
そのうえで平均値的な価値観や美意識を
教え込むわけでしょう? 
ぼくのわがままな性格が殺されなかったのは、
絵を描くのが先生よりうまかったことが
関係しているかもしれない。
「この子は、ほかのことはだめだけども、
絵がうまいんだから我慢しましょう」
ということがあったと思う。
しらないうちに先生を教育していたんだ。
ほかの学科の成績が悪くても、
かなりひいき目で見てくれたと思います。
糸井
振り返って思えば、先生は若かったですね。
横尾
そうだよ、生徒とあんまり歳が変わらないよ。
校長先生だって、老人かと思ってたけど
40代くらいだからね。
糸井
ご結婚後も、そんな横尾さんを
ご家族はゆらゆらさせて、
「わがまま」を保たせたのはすごいです。
横尾
子どもをふたりとも、
高校で辞めさせたりしたからね。
ぼくと先生の意見が合わないために、
辞めさせて、連れて帰ってくるんだからさ。
糸井
そうでしたか(笑)。
画期的ですね。
横尾
画期的かどうかわかんないけどね、
「この先生にうちの子どもを預けるとだめになる」
という、ムチャクチャな論理で文句言ったわけよ。
子どもはわけがわかってなかったけど、
「学校は嫌だ」という意識が
半分以上はあるもんだから、
「やめろやめろ。もう明日から行かなくていいから」
なんていうと、ちょっと喜んでるわけ。
でも半分は、学校にいたいと思っていただろうね。
糸井
不安になる部分もきっとあったでしょうね。
横尾
でもそれはね、
ぼくとしては唯一の「子育て」だったかもしれない。
ほかは何もしてないので。
糸井
横尾さんご自身は、
学校は一所懸命通われたんですか?
横尾
うちの両親は尋常小学校しか出てないから、
ぼくがちょっとがんばって
学校でいい成績なんか取ると、
心配しちゃったんです。
糸井
いい成績が?
横尾
偉くなって、親元から離れて
遠くへ行くんじゃないかって。
ぼくは養子だから、親はふたりとも老人だった。
だからぼくがどこかへ行ってしまうことを
ずっと心配してた。
糸井
そうですか。
横尾
試験でいい点取れれば喜ぶんだけれども、
なんだか悲しそうな顔して喜んでいるという
感じでね。
だからぼくも
「あんまりいい点は取らなくていいんだな」
という気持ちがあったような気がします。
糸井
横尾さんの暮らしは、全体的に
一所懸命にやっちゃいけないムードが
ありますね。
横尾
うん、そーかな。
糸井
幼い頃から現在に至るまで、
一所懸命やっちゃったことはありますか? 
「俺、あのときはついやっちゃったな」
なんてことが、一度くらいは
あるんじゃないでしょうか。
横尾
ぼくは絵を描いていると、
「この絵はこうすれば完成する」
というのが見えてくるんです。
ここまでは一所懸命だけど。
そうなると、そこで
「もう描かなくていい」と思ってやめちゃいます。
絵にはぼくの考えは描かれてないわけだから、
見る人は「完成前にやめている」ことを知りません。
絵を鑑賞する場合、ほんとうは、
完成した絵を見たいでしょう。
しかし逆にぼくは、
「描いていない部分がある絵を見る人が、
その続きを、自分で頭の中で描くんじゃないか」
と考えて納得する。
糸井
見る側の人が作品の中にセットされているんですね。
横尾
見る人が作品を作る。
やっぱりそれが前提になってるし、
また、そこで逃げちゃうということでもあります。
だからぼくは、見る人がいないと描かないと思う。
絶海の孤島で、誰もいないところだったら、
絵なんか描かない。
糸井
しかし、絵を描く人たちの中には、
「誰もいなくても描くぞ」という人がいそうですね。
ゴッホとか、どうなんでしょう。
横尾
ゴッホ? 
ゴッホはわからない人だね。
糸井
わからない人なんですか? 
ピカソは、横尾さんがまるで
追いかけたかのように見えてた気が‥‥。
横尾
ゴッホはわからない。
ゴッホの伝記って何冊も出てるけど、
読めば読むほどわからない。
糸井
「横尾忠則」の書いたものや伝記に近いものも
たくさん出ていますが、
それは、人にはわかられていると思いますか?
横尾
自分が書いたやつ? 
肝心なところは書かなかったりしますから、
あれは正確な自伝じゃないと思う。
嘘は書かないけれども、
まるっきり書いてないことはありますよ。
糸井
それはきっと、ほんとうは誰でもそうですよね。
「そここそが自分だ」
という気持ちもあります。
横尾
たぶん、そうなんじゃないでしょうか。
どんな偉い人でも、たとえ露出癖の人でも、
書いてないところはあると思います。
糸井
でも、絵を見るとどうでしょう?
横尾
絵は嘘をつけません。
知らず知らず出ちゃう。
「見る人はたぶんわかってないだろう」
と、こっちは思ってますけどね。
糸井
でも、自分にはわかりますか?
横尾
うん。
わからないけど、そのわからない気持ちを
絵に吐き出している。
たとえ抽象化させても、吐き出しています。
(明日につづきます)
2018-07-11-WED
横尾忠則さんの新刊

『アホになる修行 横尾忠則言葉集』

(イースト・プレス 刊)
これまでの横尾忠則さんの
エッセイ、対談、インタビュー、ツイッターなどから
選ばれた言葉集が発売されました。
さまざまなメディアで発信されてきた、
横尾さんの名言がまとまった一冊です。
生活のとらえ方や創作にかかわる考えなど、
鋭い言葉が光ります。
見開き展開でスイスイ読めますので、
なんどもくりかえし味わい、
心の刺激と栄養にできます。
本を締めくくる横尾さんのあとがきには、
こんな一文が出てきます。
「アホになるというのは、
自分の気分で生きるという自信を持っている
ということ」
このたびの糸井重里との対談でも、
「大義名分より気分が大切である」
という内容がくり返し出てきます。
それはいろんな人びとの暮らしに勇気を与える
本質をついた言葉であるといえるでしょう。
いろんなものを捨ててアホになる修行は、
横尾忠則さんに近づく第一歩なのかもしれません。