特別WEB掲載東京工業大学柳瀬博一教授の
メディア論B
メディアメーカー、
岩田聡さんについて
参考テキスト:『岩田さん』

任天堂の元社長としてゲーム人口の拡大に努め、
2015年に亡くなったあとも世界中のファンから
リスペクトされている岩田聡さん。
岩田さんの母校である東京工業大学で、
柳瀬博一教授が岩田聡さんを紹介する
メディア論の授業をしているということで、
教室におじゃまさせていただきました。
参考書籍はもちろん『岩田さん』です。

第2回マイコンコーナーから
HAL研究所へ

池袋西武百貨店

岩田さんはどこで
プログラミングの腕を磨いたんでしょうか?
1970年代の終わりごろですから、
まだ「パソコン」ということばさえない。
場所も、技術も、なにもないわけですよ。

当然、コンピューターを個人で持ってる人なんて
ものすごく少ないですし、
もちろんインターネットもない。
プログラムをやってる仲間とも出会えない。

いまならネットカフェに行きますかね。
あるいは秋葉原に行くとか。
しかし、岩田さんが通ったのは、池袋でした。
池袋にある西武百貨店です。
なぜかというと、
1970年代の後半から1980年代にかけては、
西武百貨店が文化の発信基地だったんです。

当時のコンピューターについて言うと、
1970年代の後半にようやく、
個人がつかえるコンピューターが開発されます。
当時は「マイコン」と言われていたんですけど、
はじめてコンピューターというものが
個人に向けて売り出されたわけです。
それまでは、コンピューターといえば、
SF映画に出てくるような、
ボタンやランプがいっぱいついていて、
テープがガチャガチャ出てくるような
イメージだったんですけど、
そういうんじゃなくて、
小さい箱にコンピューターが入る時代が、
ようやくこのころになって訪れたんです。

で、おもしろいのは、
コンピューターはすごいぞ、
ということに最初に気づいたのが
百貨店の人だったんですね。
それが西武百貨店、
当時の社長の堤清二さんでした。

そのころの西武百貨店には
コピーライターの糸井重里さんがつくった
「おいしい生活。」という有名なコピーがありますが、
社長の堤清二さんは、
百貨店をただの小売りの集合じゃなくて、
さまざまな文化が集まる場所にしようと考えていました。
たとえば、まだマイナーな映画を上映したり、
最新のアートを見つけて展示したり、
あるいは海外の本を紹介したり。
そういう、新しいものを集めた基地のように
百貨店をつくっていたのが、
1970年代から1980年代の西武百貨店です。

西武百貨店には1970年代から
コンピューターのコーナーがあって、
当時、めちゃくちゃ高かったパソコンが、
自由に触れるようになっていたんですね。
もちろん買うこともできる。
アメリカや日本で開発されたばかりの
コンピューターがずらっと並んでいて、
社会人、大学生はもちろん
高校生や中学生でもその実機をつかって
プログラムをすることができたんです。

コンテンツは古びない

その場所があったおかげで
お金がないけどプログラムをやりたいという人、
コンピューターなんて買えないけど
ゲームをつくりたいという人たちが
たくさん育ったんですね。
のちに日本を代表するクリエイターになる人たちを
西武百貨店の、当時「マイコンコーナー」と
呼ばれていた場所が育てたんです。

西武百貨店、そこのマイコンコーナーで
大学生の岩田さんは本格的なプログラムをはじめます。
岩田さんは毎週末、行ってたそうです。
当時は、岩田さんだけじゃなく、
コンピューターの前に座って一日中
プログラムを書く人がいっぱいいたということです。

やがて岩田さんは自分のコンピューターを購入します。
「コモドールペット2001」というマシンです。
世界初のOAパソコンです。
当時は「Apple2」というコンピューターもあったんですが、
それは高くて買えなかったそうです。

ひとつおもしろい話があるんですが、
岩田さんが「Apple2」をあきらめて購入した
「コモドールペット2001」というのは、
「6502」というCPUを採用していました。
この「6502」は、のちに
任天堂のファミコンのCPUにも採用されるんですね。

だから、岩田さんのことばを借りると、
「社会に出たときから
私は6502のエキスパートだった」そうです。
つまり、岩田さんは幸運にも、
ファミコンというハードにプログラマーとして
あらかじめ親和性が高かったというわけです。

さて、池袋西武百貨店の話に戻りますが、
この「マイコンコーナー」には、
いってみればプログラムオタクたちが
毎週末集まってカチャカチャやってたわけです。
で、なんと、そこの店員のひとりが、
集まった人たちに声をかけて会社をつくるんですね。

それが、HAL研究所という会社です。
そう、「カービィ」や「スマブラ」を生んだ会社です。
日本のゲーム業界を引っ張っていく開発会社は、
じつは、百貨店の売り場からできたんです。

そういうわけでHAL研究所には、
当時の池袋西武マイコンコーナーに集っていた
腕自慢のプログラマーたちが入社しました。
そのひとりが岩田聡さんなんですが、
じつはもうひとり、
この東工大の関係者が入社しているんです。

みなさんは東工大のスーパーコンピューター、
TSUBAME(つばめ)を見たことありますか?
あのスパコンを作った松岡聡さんというのは、
なんと岩田さんの親友で、
いっしょに池袋西武で週末に
プログラムをつくっていた人なんですね。
この2人は、売場の店員さんに誘われて、
そのままHAL研に入っちゃうんです。
おもしろいつながりですよねぇ。

岩田さんと松岡さんは、
HAL研究所でいっしょにゲームを開発します。
ふたりでつくった最初のヒット作が、
任天堂の『ピンボール』です。
ファミコン用のゲームです。

じつはこの『ピンボール』、
1980年代半ばにつくられたゲームですけど、
いまSwitchでダウンロードして
ちゃんと遊ぶことができます。

これ、メディア論としておもしろいのが、
ハードとプラットフォームというのは
時代によってどんどん古くなるということですね。
ファミコンというハードもプラットフォームも、
いまはありません。
復刻版が出たりすることはあるけど、
基本的にはもう売ってません。
同様に、ゲームボーイもない。
岩田さんが開発したニンテンドーDSも
WiiもWii Uもないわけです。

プラットフォームとハードウェアというのは、
技術オリエンテッドですから、
どんどん新しいものに移り変わる。
つまり、どんなに新しいハードもかならず古くなる。
でも、直接お客さんとヒューマンタッチする
コンテンツはいまでもおもしろいんですね。

これはゲームに限らず、ほかのジャンルでもそうです。
映画もテレビ番組も音楽もそうですね。
ハードやプラットフォームは
どんどん新しくなるけれど、
観る映画や聴く音楽は同じだったりします。

ゲームもそうですよね。
まったく同じゲームが遊べることもあるし、
キャラクターがずっと生き続けるということもある。
マリオもピカチュウも
ずいぶん前に生まれたコンテンツです。
でも、いまだにみんなをたのしませてますよね。

つまり、一回できたコンテンツというのは、
ものすごく長生きする。
ただし、長生きさせるためには、
新しいハードウェアとプラットフォームをつくること。
それができれば昔のコンテンツも走らせることができる。
いいコンテンツのおもしろさは古びない。
それを、Switchで遊べる『ピンボール』が
証明してくれているわけです。

(つづきます)

参考図書:
『岩田さん』(ほぼ日)
『ぼくの伝えたかったこと 古川享のパソコン秘史』
(古川享 インプレスR&D)

2020-07-12-SUN

これまでの岩田さんを知ってる人たち。